変革に「一世代」という途方もない時間のかかる日本

 昨年、2025年の日本において最も大きな事件といえば、高市早苗氏が女性初の総理大臣に就任したことだろう。現在では、女性初などということを言う人はいなくなり、高市氏の経済政策や外交政策を巡って毎日のように国会の内外で議論が激しい。現実となって初めてではあるが、日本社会は女性首相の登場をようやく受け入れた。女性首相だけでなく、ここ10年ぐらいの間に、大企業を中心に女性管理職も、そして女性の執行役員なども珍しくなくなった。

 そのこと自体は評価すべきと思うが、考えてみれば1985年に男女雇用機会均等法が施行されてから40年という年月が流れたことには呆然とする思いだ。理由は簡単で、女性の権利を認めるのと同時に年功序列制度を改めることをしなかったからだ。その結果、均等法世代の女性が長い年月の下積みに耐えて管理職候補適齢期に入るまで時間がかかったのである。思えば、2007年に当時の福田康夫内閣が「女性の管理職比率」を高めるための目標値を設定したが、全く達成はできなかった。政府関係者は首をかしげていたが、年功序列制度が壊せない中では当然の帰結であった。

 高市早苗氏について言えば、初当選の1993年から総理就任までは32年という気の遠くなるような年月を要している。その間に落選したり、政党を変わったり、立場性も中道左派から右派へ変えてみたりと、有権者の懐に入るためには大変な苦労をしてきた。

 考えてみれば、日本という社会は変革に極めて時間のかかる体質を抱えている。例えば、DXにしても、Windows95とインターネットの普及が1995年だとして、DXが加速するのに約30年を要している。これまた気の遠くなるような年月を必要としたのである。消費者としてデジタルに抵抗感の多い団塊世代、そしてアナログを切り捨てる勇気のない谷間世代の経営者、この両者が去るのを待たなくては、官民のデジタル化は進まなかったのだ。

 女性の活躍にしてもDXにしても、一つの改革に約30年がかかるというのは、要するに個人が変わらないからだ。そのために、旧世代が権力を手放すまでには、一世代分の時間がかかるというわけだ。これは日本という国に宿命的な特徴なのかというと、実は大きな例外がある。それは国家の転換期に起きる現象だ。

 例えば1945年の敗戦の前後においては、国家総動員法が1938年で、降伏が45年、再独立が52年であり、この14年の間に無謀な対米開戦と降伏、戦後改革と民主化へと時代が一気に進んだ。更に遡るのであれば、幕末維新の際には、ペリー来航が1853年で維新遷都が68年であるからやはり15年で歴史が一気に進んでいる。

 この2つの転換期に起きたのは、世代の退場を待たずして日本人一人ひとりの個人が変わることができたということだ。代表例は、伊藤博文であり、攘夷派のテロリストとして、英国大使館放火事件に関与しながら英国留学を経て開国派に転じた。同じような個人の変化というのは、1945年前後にも起きている。

 そう考えると、人口減の中で産業構造を更新できずにズルズルと経済衰退を招いた「失われた35年」が寛政から天保の改革失敗期であるのなら、現在のインバウンド襲来、移民依存政策の進行というのは、「黒船」かもしれない。これに対してネットに溢れる「外国人問題への不満」というのが攘夷イデオロギーという見立ては可能だ。

 けれども、年間150万人が死亡する一方で、出生は60万で90万ずつ人口は減っている。そんな中で、9000人に満たない帰化人数を更に減らすというのは、どう考えても国の滅亡を早めるだけだ。そう考えると、今、熱狂的に排外を叫んでいるネット民たちも、いずれ「現実」に直面したら意外とアッサリと国際派に転向するかもしれない。そこで、維新開国や戦後改革のような「不連続な変化」を起こすことができれば、日本という国の命運を先へと保てるかもしれない。

 新しい年のはじめにあたり、とにもかくにも一つの改革には一世代がかかるという絶望的な保守性を乗り越える、そのような時間感覚を確かなものとしたい。日本という国に「持続のための不連続な変化」をもたらす、そのために個々人が自らの変化へと踏み出す年としてはどうであろうか。

(れいぜい・あきひこ/作家・プリンストン在住)

週刊やさしいにほんご生活 新年は「はじめて」を大切に、正月でつながる日本の心のルーツなど

この連載は、日本語を勉強している人を読者対象としたコーナーです。日本文化やマナー、タイムリーな日本に関する話題などを簡単な日本語で毎月第3週号に掲載します。アメリカ人の友人などにご案内ください。また、漢字をまだ習っていないお子様にとっても社会を知り、漢字に接するよい機会になります。

新年は「はじめて」を大切に


 日本では、新しい年に「はじめてのこと」を大切にします。これを「初(はつ)〜」と言います。たとえば、新年に、はじめて神社やお寺に行くことを初詣(はつもうで) と言います。多くの人は、お願いごとだけでなく「去年もありがとうございました」と感謝の気持ちを伝えます。ほかにも、新しい年にはじめて見る夢を 初夢、年が明けてから、元旦に見る日の出のことを初日の出と言います。初カラオケ、初スキーなど新年はじめての行動には「初」をつけて楽しみます。また、お正月はいつもより予定を入れずに家でゆっくり過ごしたい人も多くいます。新しい年に気持ちを整える時間を持ちたいと考える日本らしい文化です。

年末の大掃除

 日本では、新しい年をむかえる前に、家や職場をきれいにする習慣があります。これを 大掃除(おおそうじ) と言います。年末になると、家庭だけでなく学校や会社、店などでも大掃除をします。一年のよごれを落とし、新年を気持ちよくむかえるためです。大掃除は、そうじをすることだけが目的ではありません。日本では、大掃除は、新しい年に、よい縁をむかえるための縁起のよい行動 と考えられています。また、場所や物を大切にあつかうことは、家庭でも職場でも、一緒に過ごす人への思いやりにつながります。大掃除は、新年を大切にむかえるための、日本らしい生活のマナーです。

「おもち」と「おもちつき」

 日本では、お正月に おもち を食べます。おもちは、新しい年の幸せや健康を願う、縁起のよい食べもの と考えられています。白色は、新しい始まりを表します。おもちはよく伸びることから、幸せが長く続くように、という意味もあります。年末やお正月に、おもちつき をする家庭や地域もあります。臼 に入れた、むしたもち米を杵でつくと、やわらかく伸びるおもちができます。皆で声をかけ合い協力し合うことも縁起のよい行動と考えられています。また、おもちは、あんこや醤油をつけたりと食べ方もさまざま。お雑煮はおもちが入った 汁もの で、野菜や、地域によってはぶりなどの魚 を入れます。地域によって味付けが違うのも興味深いポイントです。(長久保美奈、マナー講師)


正月でつながる日本の心のルーツ

新しい年を迎えて、おめでたく賑やかな日本のお正月。今年の干支は午(馬のこと)であり、前向きなエネルギーが加速するといわれています。本年がみなさまにとって、躍動と前進の1年になりますように。

(絵と文/平田恵子)

米は日本文化や日本人らしさのもと


 お正月の伝統的な汁ものが、餅入りの雑煮です。餅の材料となる米は、昔から神へのお供え物とされ、雑煮は餅を食べることで神の力をいただくという意味があります。さて、米が日本に伝わったのは約3000年前。その後、稲作(米づくりのこと)を通して「和」を大切にする民族性が生まれました。稲を育てるには、村人との共同作業が欠かせなかったからです。また、稲の成長は天候に左右されやすく、人々は春に豊作を祈り、秋には収穫を感謝する祀りを行うようになり、神道文化や信仰心とも結びつきました。米は日本人の主食であり伝統的な行事食や祝膳には欠かせません。また、餅・酒・菓子など多彩な加工食品がつくられています。米食に箸を使うことで、日本人の手先の器用さが養われたともいわれています。

縁起物や縁起担ぎは、幸せへの願い


 お正月にはさまざまな縁起物が登場します。縁起物とは、幸運や金運、成功など福を呼び込むと信じられているもの。例えば、門松はお正月の神さまの出迎え、お節料理はお正月に食べると縁起のよい料理です。ほかに鶴や亀は長生きの象徴、だるまは幾度倒れても起き上がる強さ、招き猫は商売繁盛を表しています。日本では昔から、こうした縁起物に願いを託し、飾ったり食べたりすることで、幸せを祈ってきました。また、縁起担ぎは、「福を呼び込むための行動」です。例えば、初物を食べる(強い生命力をもらうことで75日長生きできる)試験の前日にカツどんを食べる(カツ=勝つに通じて合格する)などのアクションです。これらの背景には日本的な信仰心や言霊という言葉の力にあやかる安心感などがからみあっています。

日本が誇る武士道とは、強く正しくやさしい心

 お正月と武士道は日本の伝統的な価値観と精神性において、いくつかの共通点があります。武士道とは「強く、正しく、やさしい心」を持つ生き方です。武士は平安時代中期(10世紀)に登場し、戦いがなくなった江戸時代(18〜19世紀)に武士の道徳として完成しました。その道徳は明治時代(19世紀末)に新渡戸稲造が英語で執筆した解説書「武士道」で「義・勇・仁・礼・誠・名誉・忠義」という七つの徳目で紹介されています。義は正しい判断(正月を折り目正しく迎え、正しく生きる決意を新たにする)、勇は正義を行動に移す力、仁は弱き者や困っている人へのやさしさ、礼は相手への敬意(正月行事では挨拶や儀式など礼儀が重視される)、誠は嘘をつかない誠実さ、名誉は誇りある生き方、忠義は私利私欲より社会の利益や公平を大切にする心です。これらは善悪や正邪などの判断基準を示すもので、次第に日本人の道徳観の基盤に。武士道は形をかえて現在の日本人の心に息づいています。

「公益資本主義」の挑戦 

 公益資本主義を目指す東京円卓会議「富める者だけの資本主義に反旗を翻す」に出席しました。公益資本主義の提唱者の原丈人さんと、慶應大学との共催です。「短期的・投機的な投資家の動きに対して経済社会の持続性をどう確保するか」が主テーマで、経済、金融、ファクトチェックの専門家が講演しました。

 公益資本主義とは「短期的な株主利益の最大化ではなく、企業を社会の公器と捉え、中長期的に公益(社会全体の利益)と企業価値を両立させる資本主義」です。

 旧知の原さんは、慶應大学、スタンフォード大学で学び、シリコンバレーでベンチャーキャピタリストとして成功した実業家であるとともに啓蒙家です。バングラデシュやザンビアなどの経済自立支援や、仲介外交などで私と共感する同志です。

 岸田文雄首相が提唱した「賃金と成長の好循環という新しい資本主義」は公益資本主義がベースと言われ、この日も石破茂前首相や神谷宗幣参政党代表も来賓で出席しました。

 公益資本主義は、1986年に国際MRA(現在の国際IC)のスイスのコーで設立されたコー円卓会議を想起させます。オランダのフィリップス社元会長の提唱で、日本の輸出攻勢に反発した欧米の経営者と日本の経営者が本音で語り合う会議で、私が事務局を務めました。1994年には「企業の行動指針」を策定しました。その理念はキヤノンの賀来龍三郎社長が提唱した「共生」、欧州が提唱した「人間の尊厳」、米国が提唱した「ステークホルダーへの責任」でした。「ステークホルダーへの責任」はハネウェルや3Mなどが提唱し、社員、顧客、地域、環境などを尊重する経営でした。

 しかし、近年の「ステークホルダー経営」は株主利益中心主義で、原さんが警鐘を鳴らしています。賀来さんが唱えた「世界との共生」や「倫理国家構想」は、原さんの唱える「公益」、「倫理」と一致します。

 私は「失った30年検証研究会」の提言策定に関わりました。資本主義の再生に留まらず、「危機管理を含めた世界全体の長期的・戦略的なStatecraft(国家運営)の確立」が提言の柱です。本年は、混乱と分断が増し、倫理崩壊が著しい世界の新しい理念と秩序作りの年とすべきです。そのためにも、公益資本主義を支援して参ります。

 皆さん、本年もよろしくお願いいたします。

ふじた・ゆきひさ=オックスフォード大政治国際問題学部客員研究フェロー(英国在)。慶大卒。国際MRA(現IC)や難民を助ける会等の和解・人道援助活動を経て国会議員、財務副大臣、民主党国際局長、等を歴任。現在、国際IC日本協会長、岐阜女子大特別客員教授も兼任。

サナエノミクスで日本を救えるのか

読売新聞東京本社社友、読売アメリカ社元社長、熱海市民大学講師

麻生雍一郎

 2025年は日米とも多事多難だった。トランプ政権は中東ガザでの停戦にこぎつけたが、ウクライナ戦争は4年目に入り、なお戦闘が続く。貿易赤字改善を旗印に各国へ発動した相互関税は司法が「待った」をかけ(まだ最高裁判断には至っていない)越年した。

 日本では10月21日、初の女性宰相が誕生した。高市早苗首相は就任5日後にはマレーシアへ飛んで東南アジア諸国連合(ASEAN)の関連首脳会議へ出席、とんぼ返りした翌27日はトランプ米大統領が訪日、日米首脳会談を終えると30日には韓国へ。アジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議へ参加して李在明大統領と日韓首脳会談を行い、翌31日には習近平中国国家主席との会談も実現した。

 歴代総理に見られなかった華々しい外交デビューに国民の支持率も80%前後に上がったが、11月に入ると情勢急変、2つの不安材料が表面化した。1つは台湾を巡る国会答弁。台湾有事の際の出方をしつこく聞かれた首相は「(中国が)戦艦を使って(台湾への)武力の行使を伴うものであれば、どう考えても(自衛隊の出動が可能な)存立危機事態に成り得るものではないか」と答弁、具体的な状況明示へ踏み込んでしまった。

 習近平主席は高市首相と釜山でのAPEC首脳会談で会うのに躊躇があったという。それでも首脳会談に臨み「戦略的互恵関係で行こう」となったのに直後の台湾をめぐる高市発言に「顏に泥を塗られた」と感じたのかもしれない。

 胸の内を忖度したのか中国側は「勝手に突っ込んできた汚い首は斬ってやるしかない」と感情むき出しの駐大阪総領事のSNS投稿に始まって再輸入に踏み切ったばかりの日本の水産物の輸入停止、訪日旅行の自粛や日本関連イベントの中止など次々に対抗策を打ってきた。

 習主席とは「引き続き会いましょう」と握手して別れた高市首相だっただけに、その後の1か月でこんな局面を迎えるとは思ってもみなかったことだろう。11月には南アフリカで開かれたG20へ参加したが、李強中国首相とは接触もなかった。中国からはその後も度々の答弁撤回要求や航空自衛隊機に対するレーダー照射など外交、軍事両面からの「威圧」が続く。

 日本では「危険極まりない徴発」(読売新聞12月8日社説)との声があるが私の知人の外交筋は「矢継ぎ早に手を打った中国だが、ここへきて圧が落ちてきたのでは」と見る。「ヒステリックな強硬策は世界の世論の支持を得られていない」「尖閣列島国有時のような反日デモを容認すると中国国内の反政府デモに化けかねない」などを例証として挙げる。米国の関税措置に対抗したレアアースの輸出規制も今のところ発動していない。日本も厳しいが経済失速の中国も国民を反日で動員できる時代ではなくなってきた、というのがこの外交筋の見立てだ。

 高市政権の不安材料の2つ目は経済、なかでも為替の反応だ。高市首相にはアベノミクスの継承、発展という意識がある。アベノミクスは財政支出の増大、金融緩和、民間投資の3本柱を立て異次元の金融緩和を行った。経済は一時的には回復し、円の対ドルレート

も1ドル=82円台まで切りあがった。

 黒田日銀総裁は物価の2%上昇を掲げ、政府も適度の物価上昇を実現することで需要の喚起と企業の投資へ結びつけようとした。しかし企業は給与引き上げをしぶり、手取りが増えない国民は買い控えと節約へ向かい、消費、内需は喚起されず経済は停滞した。

 先進各国が設備投資、成長産業への転換、賃上げ、消費拡大へと進む中、日本は”失われた30年“の眠りをむさぼった。この間に国内総生産(GDP)は中国、ドイツに抜かれ、1人あたりGDPはシンガポール、香港、台湾、韓国にも抜かれてしまった。企業は最近やっと賃上げに転じたが、今度は物価がそれ以上の高騰を始めインフレ率の方が賃上げ率を上回っている。

 サナエノミクスの呼称もできた経済政策は所得が低い層を補助金で救済しようとする。困った人たちを助けるのは大切だが、物価上昇を補助金で相殺すれば財政は赤字が増え、円安はさらに進み、輸入物価の値上がりでインフレは加速するだろう。政権発足前、1ド

ル=140円台だった為替は一挙に150円台にジャンプし、円の価値を下げている。

 物価最優先を掲げて与党が作った補正予算は18兆円を超える大型で財源の過半は追加国債の発行であてる。国の財布を借金で回してきた日本は借金の額がGDPの2倍以上、おぎゃあと生まれてくる赤ちゃんまで含め、国民1人当たり1000万円余になる。

 英国ではリズ・トラス元首相が代替財源がないまま大規模減税を打ち出したが、金融市場が混乱し、2か月も持たずに退陣した。アベノミクスは行け行けどんどんではなかった。三菱UFJリサーチ&コンサルティングの土田陽介主任研究員は「安倍首相は任期中に消費税を2度引き上げ財政運営の健全性にも相応に配慮していた」と指摘する。一方、円安が進む最近の市場について「金融市場は財政のさらなる拡張と金融緩和の維持をよしとしていない」と警告している。

 高市首相は少数与党で連立政権を組み、保守派の女性首相という共通点があるイタリアのメローニ首相とも親交を深めている。そのメローニ首相は分配を求める声に小出しの配慮はしても財政悪化につながる政策には踏み込まない。イタリアでは政治不安も落ち着い

てきた。「政治が安定すれば野放図な財政拡張は防がれる」と土田氏は指摘する。  

 トランプ大統領は好き勝手にやっているようにも見えるが記者団から微妙なところを突かれると「それは答えない」「言いたくない」「まあ、状況を見てみよう」などはぐらかすことも多い。私は故大平正芳首相を思い出す。大平首相は1980年に豪州、ニュージーランドを訪問し、フレーザー豪首相らと環太平洋連帯構想で合意した。私はシドニー特派員として同行取材したが、これは今日のAPECや太平洋・島サミットを生み出し日本外交の成功例として記憶されている。

 環太平洋連帯構想は中国や韓国はもとよりASEAN各国にもちかけても大東亜共栄圏を連想されて失敗しただろう。だが先ず豪州とNZの賛同を得たことで実現に向かった。大平首相は日本では口下手で地味な総理とのイメージもあったが、海外では思慮深く発言する実直な人として評価が高くオセアニア各国の首脳は皆、大きな信頼を寄せた。

 先進国首脳会議(サミット)を終えると牛場外務次官などを豪州などへ派遣し、内容を詳しく伝えた。繊細で気配りの利いた、日本的な外交努力が奏功したのである。

 高市首相はまじめな勉強家だ。語り口は歯切れがよく、ウソがつけない。安倍外交の継承を標ぼうするが、いま外交で範とすべきは故大平首相ではないかと思う。存立危機の条件を聞かれて大平首相だったらどう答えただろうか? 代名詞ともなった「あ〜、う〜」とうなって先ず2、30秒を稼ぎ、その間に「質問者は自分から何を引き出そうとしているのか」と考えただろう。そして外交問題に発展しかねない具体的な事例に踏み込むことは注意深く避けたであろう。私はそう想像する。

 プロフィール:1942年東京都出身。早稲田大学第一政経学部政治学科卒、65年読売新聞入社。78年シドニー支局長、87年シカゴ支局長。92~97年読売アメリカ社社長。99年読売香港社社長。2006年読売新聞社退社、2012年まで法政大学、上智大学兼任講師ほか日刊マニラ新聞セブ支局長、南日本新聞客員論説委員などを兼務。第一回サザンクロス賞(日豪交流ジャーナリズム賞)受賞。著書に『オーストラリア未知未来の大陸』『オーストラリア歴史・地理紀行』など。(写真は熱海新聞提供)

ハンター大学に外務大臣表彰

日本語教育に貢献

 外務省は去る昨年8月28日、令和7年度外務大臣表彰の受賞者を発表し、ニューヨークでは、団体としてニューヨーク私立大学ハンター校日本語・日本文化科が受賞した。その伝達式が12月12日、ニューヨーク総領事大使公邸で行われ、片平聡大使から同大学日本語・日本文化科長のアレックス・ローガルズ氏に受賞正式発表時の担当大臣である岩屋外相名の表彰状が手渡された。功績概要は米国における日本語・日本文化の推進。

 当日は、ナンシー・カンター・同大学長、マーヤン・バルカン同大日本語・日本文化科元科長、古川明代副科長ら大学関係者が招待され祝賀会に出席した。ローガルズ科長は受賞挨拶の中で同大の日本語科を創設して日本語教育に貢献し2018年の叙勲で旭日単光章を受章した川島敦子名誉科長(故人)の功績を称えた。

 現在同大では約1000人の学生が日本語を学んでいる。式典では昨年9月にニューヨークで開催されたワンストーリーアワードの日本語学生スピーチコンテストで優勝し今年訪日招聘されるカイル・フラーさん(39)が日本語を通して日本文化について学んだことなどを語った。

 同大では、本紙・週刊NY生活で毎月第3週に掲載している日本語学習者を対象とする欄「週刊やさしいにほんご生活」を授業で活用するなど日本語教育に力を入れている。

 今回の外務大臣表彰の受賞者内訳は173個人と58団体。このうち海外在住受賞者は155個人、51団体だった。

クリスマスだから ニューヨークの魔法

 私は最近、大失敗を犯した。あまりに最近のことなので、そのことについて書くのも胸が痛い。

 ある仕事関係者から、締切を予定より早めてもらえないかというEメールがクリスマス・イヴに届いた。前に一度、無理だと断わったが、とても困っているらしく、再度の相談だった。

 お世話になっているので、なんとかしたかったが、ほかの仕事との兼ね合いで、不可能に近かった。パニック状態で、「もう、メリークリスマスどころじゃ、ないわ!」と、愚痴っぽいEメールを日本にいる夫に送った。

 と、思い込んでいた。ところが、私は気が動転していたのだろう。うっかりそれを、その仕事関係者本人にEメールしてしまったのだ。

 あわてふためき、私はアメリカのインターネットのプロバイダーに電話をかけた。週末にさしかかるので、彼女がそれを目にするまでに数日ある。

 Is there anything you can do about it?

 なんとかならないですか? と泣きつく私に、

 No, there’s nothing we can do about it. Sorry.

 いえ、なんともならないですね、残念ですが、とつれない返事が返ってきた。

 できることと言えば、その人にお詫びのEメールをすぐに送ることでしょう。

 そんなこと、もうとっくにしました。

 そうですか。

 もう一巻の終わりだ。これだからインターネットなどというのは、便利なようで不便なのだ。

 でも、と電話の相手が言う。

 Yes?

 と私は期待に胸が高鳴り、受話器を握る手に思わず力が入る。

 It’s Christmas.

 クリスマスですよ。

 電話の向こうで彼が言う。

 だから、その人も許してくれるでしょう。

 あるテレビ局の取材で、全米を回った時のことを思い出した。録音機材が規定のサイズより大きかったり、荷物の量が多かったりで、利用する航空会社のカウンターの女性に、数百ドルという追加料金を払わなければならないと言われた。彼女は奥の方で誰かと話をし、しばらくして戻ってきた。

 こちらも覚悟し、払おうと思っていると、

 It’s Christmas.

 女性はそう言って微笑み、特別に見逃してくれたのだ。

 私はすぐに例の日本の仕事関係者にお詫びの電話をし、ひたすら謝った。

 It’s Christmas.

 この思いが伝われば、と祈るばかりであった。

このエッセイは、文春文庫「ニューヨークの魔法」シリーズ第1弾『ニューヨークのとけない魔法』に収録されています。

https://www.amazon.co.jp/dp/4167717220

日系1世の生きた証

名前と顔の一致求めて

写真家・井上博行が撮影


 2025年11月、NY日系人会(JAA)ホールにニューヨーク日系1世のモノクロのポートレート53点が並んだ。100年ほど前に渡米した人々で、撮影されたのは約45年前だから、ほとんどが80歳以上。人生の年輪とでも言おうか、みな何ともいい表情だ。撮影時の聞き書きも一部公開され、起業、留学、結婚、密航、冒険などの渡米理由、新天地での苦難や第二次世界大戦中の差別、敗戦国となった母国への思い、終の棲家となるNYへの愛が、話し口調で生き生きと活字となって蘇る。この紆余曲折の人生譚がまた面白い。ところが「11人しか名前と顔が一致していない」というのを聞いて何とも残念な気持ちになった。さらに多くの人を一致させようと作業を進めるJAAの取り組みを取材した。(小味かおる、取材協力:野田美知代さん、竹田あけみさん、青野栄子さん、横山由香さん)

 撮影したのは、宮崎県出身の写真家・井上博行さん(1951〜2024)。日本と英国で活動後、1978年から約5年はNYを拠点に芸術的な写真を中心として活躍していた。たまたま日系1世と接したことで、グラフィックデザイナーの斎藤央火さんとふたりで「パイオニアともいえる方々の記憶を残そう」と、新移民法(アジアからの移民を全面的に禁止する条項あり)が交付された1924年以前に渡米した日本人を約1年余かけて訪ね歩き、ニューヨーク(JAAと総領事館で2回)と東京で写真展を開いた。

 それから約40年、井上さんのスタジオに眠っていた写真が再び脚光を浴びた。今回の写真展に尽力したアーティストの竹田あけみさんはこう話す。「5年ほど前、博行さんの一世写真展の資料を妻の千恵さんからもらって、強く興味を持っていたのですが、昨年博行さんが亡くなって…」。NYで写真展をしたいと、JAA事務局長の野田美知代  さんに相談し、写真60点と聞き書きノートなどがJAAに寄贈されることになった。

 竹田さんは、日頃から青野栄子さんとふたりでJAAの収蔵庫で週1回、アーカイブのボランティア作業をしている。竹田さんが8月の帰国時に聞き書きノートを持ち帰り、写真展までの約2か月、青野さんとふたりで手書きメモのデジタル化に集中した。音声を文字化するアプリを使って「話した口調そのまま」のメモを読み上げて活字にしたという。展示のために英訳も用意した。「井上さんの手腕もあるのでしょうが、本当に表情がいい。苦難を乗り越えてこういう顔になるのかと思いました」と青野さん、「この仕事を通じて、1924年の法律について知りました」と竹田さん。

 JAAに1989年から勤務する野田さんは「私が来る前のことで、当時のNY日系人の記録が極めて少なく、この写真と聞き書きはとても貴重」と資料的価値を力説する。「ニューヨーク日本人歴史デジタル博物館」の学芸員・横山由香さんは「戦時中はNYの日系人がエリス島に集められたという記録や写真があり、今回の聞き書きにもそれについて話している方がいて、実際に語られた歴史としての価値がある。また、華やかなファッション写真を撮影していた井上さんが、どうして彼らに興味を持ったのか、そのことも非常に興味深い」と話す。

 残念ながら、顔写真とメモされた名前を揃える作業は、展示後は頓挫した状態だという。野田さんは「展示の前に、JAA会員、仏教会や日米合同教会の方々に呼びかけ、10人わかった。しかし、独身の方もいたり、子供たちがNYを離れ米国内外で生活をしていたりと、顔写真と名前を一致させるのは難しい」とため息を漏らす。竹田さんによると、「残された名前リストは62人分と聞き書きした人数より多く、肖像作品は60点の寄付のうち重複を除いて53点と、謎解きが多い」とのこと。展示を通じて作業が進むことが期待されたが、撮影から約45年も経った今となっては、顔写真と聞き書きの一致は困難を極めている。

 先人の足跡に続いて自分たちが居る。どの人が何を語ったのか、生きた証をより正確に記録として残したい。一人でも多くの目に留まれば…。JAAは、今後はロサンゼルスの日系人博物館など全米組織に相談したり、ネガに何か記されていないか千恵さんに確認を依頼したりして、一致させる作業を進めていくという。「ニューヨーク日本人歴史デジタル博物館」としても「ある程度まとまった形での展示を将来的には検討したい」と横山さんは話している。

取材を終えて 

 井上さんの写真を「日系一世の群像」として捉えれば、一人ひとりの名前が判明しなくてもアート作品としての価値があるのかもしれない。しかし、まるで隣にいるような話し口調そのままの聞き書きを読むにつけ、日系1世の人生が語られた表情と証言を「貝合わせ」のように一致させ、被写体のみなさんだけでなく取材した井上さんらがNYに生きた証を明確な形で残して、次世代に伝えていきたいと、強く感じた。手がかりや効果的な方法があれば、JAA(電話212・840・6942)まで。

名前と聞き書きが一致した5人 (聞き書き録から抜粋、一部編集)

清水逸平さん 歯科技工士 

1899年静岡県生まれ、パリとロンドンの大使館に各3年ずつ勤務後、1925年NYに移住。

 政府の役人が来て、戦争になったからここを閉めなきゃいけないと仕事場のドアに張り紙をしましたよ。次の知らせがあるまではここに来ちゃいけないと鍵まで持って行っちゃったんですよ。12月24日に役人が来て、クリスマスプレゼントがあると言うんですよ。今日から開けていいって。(中略)辛かった様なことは一つもないですね。第一、一度も病気をしたことがなかったからいつも幸福でしたよ。そして戦争が始まった時も何もなかったし、長女が大学を出てすぐ死んだことが一番つらかった。そりゃあ、こっちの方が暮らしやすいですよ。日本の面倒なことは、親類、友人たちですよ。お互いみんなとてもよくやってくれるでしょう。あれが困るんですよ。(中略)NYは好きですね。 慣れちゃったし、呑気だからでしょうね。(中略)わしゃー、ニコンを持ってたんですけど泥棒が入って取っちまった。そしてキャノンを買ったんですよ。ムービーカメラの2個も持ってたんだけど、今度はそのカメラもやられたんですよ。


岸はるさん ランプシェード製造 

1904年東京品川区生まれ、18歳で結婚して翌年の23年、夫の起業に伴いNYに移住。

大恐慌にひっかかって倒れてしまった。母から手紙が来て鍋釜は支度しておくから 帰ってきなさいと。でも(中略)そのままアメリカにいることにしました。だからできることは何でもやりましたね。子供がいるから。(中略)1962年に帰ったの。仲良くしてもらいたいと思ったけど自分の兄弟でさえそらぞららしくてあてがはずれた。(中略)何もかも変わっちゃって、私の故郷はないです。自分が歩いた亀の子橋へ行って、そんなものはないし、少しばかり寄付しようと思って行った小学校もなくなっちゃった。都レストランのビルディングのオーナーがとてもいい人で、お前は日本人だけどお前が悪くて戦争をやるんじゃないと、出て行けないとも言わないし、みんなプロテクトしてくれた。だから戦争中でも店を開けた。(職業名は、中西泰子著「母国は遠く/ニューヨークに生きた一世」より)


ハリー・ヨークさん 俳優  

生年・出身地不明。16歳ぐらいで横浜から船に乗り込み、欧州を回り、1925年渡米。

 アメリカに来てやらない事は無いぐらいなんでもやった。(中略)今から57年前の私がレストランの皿洗いで満足してたらまだ皿洗い。ところが希望と野心を持っていた。地下鉄で寝たりパークで寝たり街のベンチで寝ててバケツで水をかけられたこともある。23歳ぐらいの頃ブロードウエーを歩いていたら(中略)スカウトされた。言うのはなんだがスターだった。役なんかまず私のところへ来て、私がいやだと言ったら他をあたった。戦争の頃は、ホワイトハウスで働きミセス・ルーズベルトにつかえた。(中略)ミセス・ルーズベルトが戦地に送ってくれるな、あの小さな男がかわいそうだと。エンターテイナーに逆戻りして(中略)戦争中、アメリカの中を自由にまわれた日本人 は、私ひとりでは。


綾部たかさん  

1900年静岡県生まれ。19年シアトル移住。離婚、帰国を経て、29年に単身留学で再渡米。

 結婚してきたんですけど、彼は先に私は後で一人で来ました。大阪商船でその当時では大きくて1万トン位だったでしょう。彼はシアトルでファーマーズマーケットとして、日本人農民の野菜果物を売っていましたよ。(中略)お金を目的として来ている人が多いでしょ。だからできるだけ倹約してそしてお金を貯めて日本に帰ろうとしたしていた人が多かったですよ。(中略)1926年に日本に帰ってね、(中略)27年に再びアメリカへ、その時は再び日本に帰ろうと思わなかった。無理矢理学生ビザでワシントン大学には入ったけれど(中略)イーストに行きたいと思ったんですけれど(中略)うまくバケーションを利用してシカゴ大学に入った。29年にシカゴの移民局で永住権をもらって38年にNYに行きました。当時のシカゴには700人から800人いましたが、日本人問題が起こって、多くの日本人が帰り300人ぐらいになりました。その大部分は大学生でした。シカゴでは勉強する以外ありませんでした。


赤松三郎さん 日米合同教会牧師  

1905年広島県生まれ、23年高校留学で渡米、34年に神学校とコロンビア大学入学のためNYへ移住。「3つの教会を合同させるのに11年かかった」。

 日本人が排斥されてるのを見て癪に触って、その救済問題を考えたとき牧師になろうと思った。(中略) 戦争前に捕まってエリス島に送られた。3人の有力市民人ジャッジがいろんなことを質問した。その時に私は今エリス島に米国の健全な精神である民主主義に対して不信を抱いている人がたくさんいる。何故かと言うと彼らには帰化権が与えられていない。もしアメリカが海外で民主主義のために戦っているのなら、国内において実施すべきだ。アメリカが日本人、支那人、朝鮮人たちに帰化権を与えたら…と言って退いた。アメリカは偉いね。理屈にあったことを言えば認めてくれる。

NYシニア生活の喜び 大江千里

Senri Oe (Jazz pianist, Jazz composer)

Happy New Year!

 まだ実際に今は旧年中ですがすでに僕の気持ちは1月のど真ん中にいます。なぜならばツアーが日本であるからです。1か月かけて1月4日名古屋を皮切りに

2月1日熊本まで日本列島を走り抜けます。基本ホールコンサートをソロで。途中トリオでのコンサートもあり芦屋ルナホールとブルーノート東京でも3日間6ステージやります。こうして元気で音楽を演奏できる喜びを噛み締めながら今年も幕が開きました。(まだ旧年ですが。ひつこい?笑)

 65歳の旧年中は摩訶不思議なことだらけの体験の年でした。まず数年前から何度か体調に?を感じる瞬間があったのです。理由もなく悪くなるという。アメリカの主治医も「一度大腸スコープをやったほうがいい」と心配そう、保険に入ってないので、ぼくは日本に帰り専門医に全身麻酔で検査をしてもらったのです。案の定ポリーブが3つあり内視鏡で除去。そういうお年頃です。早めにわかって除去できてよかった。でもまたできるのでチェックは必要です。ところが、それだけでは終わらずにこっちが本筋、「フードアレルギーがある」ことが判明しました。お医者さん「突然、調子が悪くなることがあったでしょう?」僕「はい、いきなり下痢や嘔吐が起こりました。だからお酒もやめたんです」お医者さん「フードアレルギーがあります」僕「……」。

 アレルギーといえば幼少時期からダニ、ミルク、くらいだと思ってたのだが、実はアーモンド、カボチャ、じゃがいも、大麦、ピーナッツ、ピスタチオ、キドニー豆、白インゲン、寒天、オレンジ、柘榴、キャベツ、ラズベリー、ひまわりのタネ、白米、とうもろこし、麦芽、ヘーゼルナッツ、カシューナッツ…、などあるある。強陽性のものは6か月くらい接種禁止。低〜中等度のものは4日に1回以上摂取しないなどが言い渡されました。

 どちらかというと健康に気をつけて、好きでもないアーモンドを一生懸命食べてたのだが、それあかんやつやーん? それで具合が悪くなった可能性も高い。消化不良、ゲップ、吐き気、胃炎、湿疹、頻尿など…、老化だけじゃなかったのねん。ぼくは人生初の「食べ物改革」を開始。ローテンションガイドをもらい免疫反応を沈めるために、原因食物を控えました。そして新たな食物アレルギーを防ぐために食物をローテーションで摂取するよう心がけ。

 2025年は食べることが根底から覆された年だったので、冷蔵庫に「野菜、穀物、豆、飲み物、フルーツ、

乳製品および代替食品、ナッツ種子オイル、シーフード肉卵」の円グラフ表を貼り、代わりの食物を見つけたらそこへ鉛筆で記入し、しっかり毎日睨んでそれを守って食生活をするように心がけました。

 とにかくかぼちゃとアーモンドがものすごい拒否反応だったようなので、ついつい「ヘルシーに買っちゃおう」とする自分を抑え、サラダに入ってるかぼちゃやフレークに注入されてるアーモンドにも注視し、なんだか数か月はものすごく緊張しながらの生活でした。ハロウインの時目に入るかぼちゃさえ「いっ」ってこわばりましたもん。しかしなんだかんだでだんだん気持ちがリラックスしてきて、たしかにNG食品を食べないと身体の調子もすこぶる良くて楽しくなり、数値の低い低ー中等度のものならばとちょこちょこ摂取するようになりました。だってあれだめこれだめは寂しすぎる。

 ちょっとまえにひどい症状の下痢嘔吐をツアー中に繰り返しそれからアルコール摂取をやめたのですが、おそらくアルコールというよりはこれらのNG食品が原因だったと思われます。しかしながら、せっかくお酒を飲まなくなってなんかこれもよかったので、6、7年前に辞めたタバコのように、軽い気持ちでお酒もとらないようになりました。なんだったんだってくらい平気でSoberに。

 しかしながら外食は続けてますので野菜やチキンの胸肉などをたくさん摂取できる店を選ぶように気を配り、前よりよく噛むように

なりました。

 同時進行で歯を治したり、朝晩ストレッチを始めたり、とにかくよく歩くようになりました。すると不思議なもので、気持ちがおおらかなのかピアノの練習も無理なくできるようになって、指の歪曲や弱い指の訓練も丁寧にやるようになり、少しずつピアノもまたうまくなってきたのです。(自分比較。)歯を変えると噛み合わせも変わり、口角を上げて笑うようになります。この意識がすごくよくて、てくてく歩いていても

いろんな人と短い会話をやるようになりました。

 そうこうしているうちに、9月6日の誕生日でなんとMedicareがスタートしたのです。これまで18年のNY生活、コロナワクチンで意識を失ったり、腹膜炎でやばかったり、なんどもERにお世話になり、保険も始めて辞めてを繰り返し、最後は保険がないままになってたのです。それがなんといきなりのMedicareの降臨。基本のA・BプランにC・DプランをくっつけてMedicare Officeの人と電話で話しながらなんとか自己プランを決め、「ぼくのシニア生活」がスタートしました。

 それからほどなく主治医のアポがあったのですが、無事終わって受付で毎回びっくりするような額を払わなくても「じゃね」「またね」と手を振るだけで帰れる喜びと達成感よ。あー、シニアなのだ!と街中に言いふらしたい!また、どうやらMTAもシニア割引があるらしい、と聞きバッテリーパーク近くにあるオフィスに出掛け写真を撮ってもらい、胸を張って割引で乗れる「OMNYカード」を持参するようになり、これによって、今まで行ったことのないアップステートへDay Trip、マンハッタンの中もスイスイ。感覚としては、Refillしようとしてもまだまだあるよ、ってかんじ。嬉しいのなんの。急にいろんな路線に乗って行動範囲が広がって。

 秋に妹と甥っ子が来た時も一緒にメトロポリタン美術館へ入場する時、「えっと、実は…シニアになった

んだけど、一昨日が誕生日だったんだ」と告げたら「ええ、じゃ、割引になるよ。いくら払いたい?」「え?どういうこと?」「あなたが決めていいのよ」「ほんとに?じゃ、30ドル(もちろん1人)」「オッケー、じゃシニア値引きで30ドルね、はい、領収書!」見るとどう考えても妹と甥っ子と僕の3人分がまとめて30ドル。

 「おじちゃん、すごい」甥っ子に褒められてなんか偉くなった気分。しかし人生ってほんとにあっという間に65年過ぎちゃうものなんですね。最近、こうして食を見直し、多少は運動をし、ピアノも英語もスロウだけれど努力し、ほんのすこしずつまた変化していく楽しみができました。僕の中でこの変化はきっと「80代になっても自分の足で歩けて楽しく音楽をやる」ための地道な準備や訓練なんだろうって思うようになりました。そしていまコロナ禍から書き溜めたnoteの原稿が1冊の本になります。1月19日、KADOKAWAから発売。タイトルは「ブルックリンの子守唄〜耳をすませば命の音が聞こえる。」です。

 恒例になったバードランドシアターも2026年は10月30、31日に決定。きっと一昨年の春に亡くなったぴーすがパパを守ってくれてるのかなと思います。

 皆様、新しい年も笑顔で参りましょう。今年も心からよろしくお願いします。

大江千里 元旦2026年

大田区町工場 職人たちの履歴書2

SAP CHANO・著
マグノリア出版・刊

 『大田区町工場 30年目の履歴書』(2024年)の第二弾だ。前回は、写真家・SAP CHANOが 30年前に取材した東京都大田区の町工場の職人たちを再訪し、令和の今に至る姿と声を写真と文章でまとめたノンフィクション+写真集だったが、今回は、金属加工以外の職人たちにも幅を広げ、町工場の伝統の中に生き続ける現代の匠の顔27の素顔を捉えている。写真家としての視点で、職人の「手(技)」や「顔(表情)」、工場の機械・現場の息遣いが丁寧に収録されている。

 大田区は日本有数の中小町工場が集まる地域で、かつてのバブル期以降の経済構造の変化や後継者問題などを背景に、職人・工場のあり方が変わってきた。本書は、そんな時代の変化と職人たちの営みを「人の顔」、ポートレートで描く写真の記録としての価値 をさらに色濃く打ち出した人物レポート写真集だ。

 人間にも、時代にも、国にも、芸能人にも、一番輝いているピークというものが存在する。今回の第二弾で登場する技術者たちは、親の代から受け継いだ2代目、3代目の工作者たちが多い。親世代の多くは、昭和の日本の高度経済成長期にその高い技術力で日本の重厚長大の産業を下支えしてきた歴史がある。30年前の1995年に茶野氏がこの大田区の町工場を取材して、30年後に、ニューヨークタイムズの記事を沖縄の行きつけのなんちゃって日本食レストランで目にしたのが、写真レポ復活のきっかけだった。

 こちらで言えば、ハードウエアストアの棚に並んでいるような小さなボルトやナットから、日本の政府から注文を受けて原発や瀬戸大橋、高速鉄道のクッション、シリンダーの作成まで、ミクロン単位の精度で仕上げる高い技術が、町工場のひしめく大田区に点在している。その一軒、一軒を飛び込みで取材。100通の取材依頼メールで返信が来るのは3通あまりだったという。そのなかでの27人のポートレートと家族の成り立ちまで取材したヒューマンドキュメンタリーが、茶野さんの軽妙洒脱な文章と、本業である写真家としての腕前で1冊の記録写真集として再び多くの人の目に触れる。

 前回も書いたが、著者の茶野氏は1986年から91年までニューヨーク読売プレス社のカメラマン茶野邦雄として欧米取材やブルック・シールズのインタビュー写真などを撮影して活躍していた報道写真家だ。当時、ワンショット3万ドルと言われたNYで活躍した広告写真の第一人者、HASHI(故人)にもニューヨークで懇意にしてもらっていたようで、その後のアフリカのファッションメンズたちを写真取材したサプールシリーズで日本で大きな注目を集めた。2018年にはフランスのランス市から招待され、国鉄ランス駅で写真展も開催している。ライフワークは、覚悟の決まったカッコいい人たちを世界中から探し出して写真と文章で紹介することだそうだ。茶野氏自身の生き様もかなりカッコいい方の部類に入るのではないだろうか。この調子でライフワークとして続けて欲しい。何しろ写真が文句なく素敵なのだから。 (三浦)

編集後記

編集後記

 みなさん、こんにちは。 今年も残すところ半月余りとなりました。ニューヨーク地域に住む日本人にとって、今年はどんな年だったのでしょうか。遡れば今年1月のトランプ大統領の就任以来、米国は過去に類例を見ない大変革の1年となりました。バイデン政権時の弱者救済の博愛主義は影を潜め、富めるものがさらに富を増幅させ、一般国民だけでなく本来最も安定した職業と見られていた公務員の連邦政府職員たちまでもが路頭に迷う光景が繰り広げられました。そしてニューヨークの物価は高止まりのまま。街でラーメン一杯と餃子を外食すれば、日本円に換算して約6000円というご時世。外国人として米国に暮らす日本人の日常を取り巻いた今年1年のさまざまな出来事を本紙の見出しで振り返ってみました。1面から4、5面で特集しました。

 今年も一年ご愛読ありがとうございました。来週号は1回お休みをいただいて、2026年新年号は、12月29日の発行、配達(一部地域・郊外は30日)となります。来たる年もまたどうぞよろしくお願いいたします。それでは、みなさんよい週末を。(週刊NY生活発行人兼CEO、三浦良一)

【今週の紙面の主なニュース】(2025年12月13日号)

(1)本紙見出しに見る  NY重大ニュース

(2)NYで能公演 宝生流が来米 ジャパン・ソサエテティー

(3)花・香る・飲む香水  本格芋焼酎MORRIS米国で販売中

(4)サンタに会えるイベント会場

(5)NY日系人会 華やかに晩餐会

(6)特撮の神様 殿堂入り 円谷英二氏

(7)やさしいにほんご 

(8)年越しそば予約開始  イーストビレッジの蕎麦屋

(9)DEEPなQUEENS  アストリア リトル・エジプト

(10)運動を通してNY地域女性の健康サポート  吉岡真理子さん