編集後記

編集後記



 みなさん、こんにちは。あの日の朝も秋晴れを思わせる青空が広がっていた。それが一瞬にして火炎の地獄に変わった。2001年9月11日の米国同時多発テロで2977人、日本人24人が犠牲となった。現場となったグラウンドゼロには、世界貿易センタービル跡地を模ったメモリアルの滝の池が南北に二つある。滝の周りには犠牲者全員の名前が刻まれている。その南滝の東側、セクション44と45に日本人犠牲者の名前が12人まとまって刻まれている場所がある。事件から25年という年月は流れても、あの日のことはまるで昨日のことのように思い出すことができる。


 私はあの朝、ウエストチェスターのママロネックの自宅からメトロノース鉄道の通勤電車でマンハッタンに向かっていた。電車がイーストリバーを超えたあたりで車内にいた乗客の携帯電話が一斉に鳴り出した。「え?なんだって?」「オーマイガーッ」と何かあちこちで叫んでいる。乗客の多くが、グランドセントラル駅の1駅手前の125丁目のハーレム駅で下車して行った。私の携帯電話は鳴らなかったので、何が起きたのか分からず、またなぜ、多くの乗客がハーレムで降りて行ったのも分からなかったが、そのまま電車はグランドセントラル駅に何事もなかったように滑り込んだ。だが、ホームやロビーの様子が少しおかしい。皆足早に、小走りで駅の外に出て行った。その時すでに、世界貿易センタービルに1機目が突入していた。電車で鳴った携帯電話は、家族などからグランドセントラル駅やメットライフビルも危ないという警告だった。

 まだ、そんなことも知らずに、マジソン街を歩いて五番街52丁目にあった会社に向かった。途中、47丁目のショーウインドウの中のテレビに群がるように歩道で見入っている黒山の人だかり集団に出くわした。何を見ているのだろうか、なんだか昭和の日本の力道山のレスリングの街頭テレビ中継の光景に似ているななどと、呑気に中の画面を見ると、世界貿易センタービルが真っ黒な煙を出していた。「えっ」と後ろを振り返ったら、本物の世界貿易センタービルからもくもくと黒煙が出ているではないか。ここでやっと大変な事故?事件が起こったことを悟り会社に走った。


 当時私は、読売アメリカという読売新聞社の米国現地版の編集部の現役の記者をしていた。会社に着いても何が起こっているのかまだわかっていない。事件なのか事故なのか。デスクのカメラを2台肩にかけている時に、2機目が突入した。事故ではないことを誰もが知った瞬間だ。職業柄、写真を撮らなくてはならないと思った。あの黒煙を出しているワールドトレードセンターの写真を最も確実に明確に撮影できる場所はどこかを考えていた。ロックフェラセンタービルの屋上(現在のトップ・オブ・ザ・ロック)にあったレストラン、レインボールームの窓から撮影したら、手前にエンパイアステートビルがあり、その後方、はるか向こう側に煙を出す世界貿易センタービルが撮影できるのではないか。ニューヨークであることも一目瞭然のアングルだ。それで行こうと迷わずに「写真撮ってきます!」と会社を飛び出す直前に、呼び止める声があった。「三浦さん、まだ上空に何機か飛んでいるかもしれませんよ。ロックフェラーも狙われたら危ないですよ」と。呼び止めたのは、今、週刊NY生活で一緒に仕事をしている相棒の久松茂だった。

 結局、撮影よりも、午前中は会社をあげて号外を作ることに切り替えた。日本からのファックスを頼りに、世界貿易センタービルに入っている日系企業の名前を調べ、事件の概要を東京から取り寄せて、拡大コピーをしてテープで貼り合わせて巨大な壁新聞の「号外」を制作し、紀伊國屋書店の市橋店長に頼んでウインドウに張り出してもらい、レターサイズの号外は昼時のランチタイムの日本食レストランで社員が手分けして号外を配布する作業に回った。


 私は、事件直後の写真を撮りに行かなかったことを事件から2か月くらい経ってから後悔することになる。月刊『文藝春秋』の表紙が、まさに私が狙おうとしていた写真を表紙に使っていたからだ。スクープ写真は撮れなかったけれども、行っていたら、今日、こうして、あれから25年経っても同じように新聞を作っていられなかったかもしれない。書かなかった記事は誰も知らない、撮らなかった写真は誰も見ない。


 久しぶりに、グラウンドゼロに行って、日本人犠牲者の名前を見た。11日以降は、毎年、刻まれた名前に多くの花が飾られている。まだ、花は一輪もなかった。25年という節目の年の追悼式典。来米する日本人遺族の中には、90歳近い高齢の人もいる。これが最後のお別れになるのかもしれないとの思いを胸に抱いて。刻まれた名前もまた同じ思いで待っている。シャッターを切りながらそんな思いが伝わってきた。刻まれた名前の魂まで撮影できているのか、普段は、女の顔ばかり撮っているような私だが、それではカメラが許さない。今週号の1面で掲載しています。それではみなさん良い週末を。(週刊NY生活発行人兼CEO、三浦良一)

【今週の紙面の主なニュース】(2026年9月12日号)

(1)幕末に渡米した日本人留学生  ラトガース大学で式典

(2)25年目の9.11

(3)八神純子が旅するルート66 (最終回)

(4)9.11から四半世紀 失われた年月を思う

(5)日本の老後と相続対策 自宅でできる薬膳講座 

(6)NY日本人美術家協会 第54回展覧会を開催 

(7)北米最大規模の日本漫画展 ブルックリン美術館で10月3日から 

(8)岩田華怜の舞台 「10年後の君へ2026」

(9)ファッション最先端の髪型を作る  小室しほりさん

(10)第6回ジャパンビレッジ夏祭り 踊って食べてニューヨーカー

幕末に渡米した日本人留学生 ラトガース大学で式典

 ニュージャージー州にあるラトガース大学のカークパトリックチャペルで9月12日(土)午後3時から5時まで、同大学と日本の交流を祝う「Rutgers Meets Japan: A Celebration of Friendship」 が開催される。

 今年は同大学の卒業生であり創設者でもあるウィリアム・エリオット・グリフィス(1843〜1928年)が1876年に出版した『皇国 The Mikado’s Empire』から150周年、そして昭和天皇から旭日章を授与されてから100周年になる。これを記念しグリフィスの功績を讃え、これまで続いてきたラトガース大と日本の交流を祝うイベント。式典にはNY総領事の片平聡大使や、大学のあるニューブランズウィック市のジェームス・ケイヒル市長らが参加する。

 参加費無料だが要事前予約。予約・詳細はウェブサイトhttps://global.rutgers.edu/event/rutgers-meets-japan-celebration-friendshipを参照する。

 ラトガース大学は、オランダ改革派教会を母体とする学校を前身として1866年に創立された州立大学。ストレプトマイシンを発見したS・A・ワックスマンを輩出するなど、化学、農学、科学技術分野に突出した業績を持つNJ州最大の総合大学だ。

 この大学に近代日本の黎明期にあたる慶応3年から明治30年までの30年あまりの間に、一説では300人近くもの日本人留学生が学んだという。若林晴子/ラトガース大学アジア言語文化学科凖教授は「この節目の年を機に、グリフィスを初めとするアメリカ人教師や学友たちと日本人留学生との交流が日本の近代化のみならず、日米の友好関係、アメリカの日本理解に果たした役割を振り返ることで、人と人との繋がりを通しての国際交流や相互理解の重要性をあらためて再評価したい」と話す。

 当時この大学に学んだ日本人留学生の多くは日本の近代化に大きな足跡を残している。1867年に同大に入学した日本人最初の官費留学生、日下部太郎=写真右=のパスポート番号は第4号。日下部は、同大を3年間で首席で終えたが、1870年、卒業の1か月前に結核のためこの地で死んだ。享年26歳の若さだった。

今も眠る日本人留学生たち
青春の記録も保存

 ラトガース大を1869年に卒業したウィリアム・グリフィスは福井に招かれ、3年半の日本滞在中、福井と現在の東京大学の前身である大学南校・開成学校で教鞭を取っている。 

 そのような時代に訪日した約60人と言われるラトガース大卒業生の「お雇い外国人」教師や宣教師たちが日本の近代化に果たした役割は、欧米の他の大学に比して劣らぬものであった。

 越前福井藩士の日下部は、同大を3年間で首席で終えたが、卒業の1か月前に結核のため、1870年にこの地で死んだ。

 大学キャンパスから学生街を抜けた一角の共同墓地、ウイローブ墓地の片隅に、日下部ら日本人留学生の墓がある。並ぶ7本の墓石に、長谷川雉郎(23)、小幡甚三郎(29)、阪谷達郎、川崎新二郎(21)、入江音次郎、松方蘇介(22)の名がいずれもかすかに読み取れる。松方蘇介は、後の1884年に渡米して同大に学び、帰国後初代川崎造船社長となる松方幸次郎の従兄弟でもある。

 松方幸次郎は帰国後、川崎造船の初代社長で日本の実業界のリーダーとなり、膨大な美術収集・松方コレクションで知られる。在学中にフットボールのユニフォームに身を包む若干20歳の松方幸次郎の写真が同大図書館に保存されている。子供の頃、木から落ちて、片足が不自由だった松方が入部したのがフットボール部だった。

 同大図書館に保存されている1958年1月11日付の地元紙、ザ・デイリー・ホーム・ニューズが「明治初期の日本人留学生の墓が23年間も倒れたまま、荒地に放置されている」と報じるまで、在米邦人はこの墓の存在を知らなかった。この記事を読んだニューヨーク日系人会(JAA)の代表が、当時のポール市長にかけあい、修復工事を依頼。市長は、ヘルスケア大手のジョンソン&ジョンソンのジョージ・スミス社長に修復のための工事費、200ドルを懇願、墓石修復を行ったという。しかし1977年にこれらの墓石が再び将棋倒しのように倒れ、日下部の故郷、福井市市長が来米して修復、現在に至っている。

 このほか同大グラマースクールに学んだ日本人留学生には、1872年に特命全権大使として来米した岩倉具視の子息3人もおり、帰国後、宮内庁や外務省の要職に就いたほか、岩倉の通訳として来米。

 さらに明治維新の立役者の一人、勝海舟の子息、勝小鹿もここに学び、その小鹿の従者として渡米した富田鉄之助と高木三郎もともに同大に在籍、明治5年にできたニューヨーク領事館の副領事と領事を務めている。富田は留学生のまま副領事を4年間務め、帰国後の明治21年から1年間、二代目の日銀総裁に就いている。高木は、初代のニューヨーク総領事となり、離官後ニューヨークにそのまま留まる。製糸の輸入業を営み、日米貿易の先駆者として活躍した。日下部太郎らの墓と共に「1877年没、タカギ・サブロウ・スマ夫妻の幼女」と記された小さな墓は、この高木の亡くなった幼女の墓で、外地で娘を一人にせず、せめてともに志を同じくした同胞とともに眠らせようと、高木三郎夫妻がこの地に埋葬したのだという。

ラトガース大学日本人学生会の声

「歴史の重みに誇り感じる」

「日本文化の魅力広めたい」

「私たちの世代も受け継ぐ」

 山田雅姫(やまだ・みやき)さん(21)、ラトガース大学日本人学生会(RUJSA)会長「長い日米の歴史の中、今のこの時代にラトガース大学で日本人学生として学業に取り組み、日本人学生会の会長を務めていることに、とても不思議なご縁と誇りを感じています。これを糧に、これまで築かれてきた関係を大切にしながら、日米の新たな繋がりや価値を次世代へ残していきたいです」。

  久松万里菜(ひさまつ・まりな)さん(20)、ラトガース大学日本人学生会(RUJSA)副会長「こうした日本との長い歴史があるラトガース大学で、一人の日本人として、また日本人学生会の一員として、もっと日本の文化や魅力を広めていきたい、そして頑張りたいと思いました」。

 菅沼木乃香(すがぬま・このか)さん(20)、ラトガース大学日本人学生会(RUJSA)セクレタリー「 日本と150年ものつながりを持つラトガース大学で、今自分が日本人学生として学んでいることをとても誇りに思います。また、日本人学生会を通して、日本人としての居場所を持ちながら、他の学生に日本の文化を発信できることにも大きな意義を感じています。これまで築かれてきた日本とラトガース大学との関係を大切にし、私たちの世代もそのつながりを受け継ぎながら、日本人コミュニティの輪をさらに広げていきたいです」。

25年目の9.11


 あの朝も秋晴れを思わせる青空が広がっていた。それが一瞬にして火炎の地獄に変わった。2001年9月11日の米国同時多発テロで、2977人、日本人24人が犠牲となった。現場となったグラウンドゼロには、世界貿易センタービル跡地を模ったメモリアルの滝の池が南北に二つある。滝の周りには犠牲者全員の名前が刻まれている。その南滝の東側、セクション44と45に日本人犠牲者の名前が12人まとまって刻まれている場所がある。事件から25年という節目の年の追悼式典。来米する日本人遺族の中には、90歳近い高齢の人もいる。これが最後のお別れになるのかもしれないとの思いを胸に抱いて。刻まれた名前もまた同じ思いで待っている。(9月7日午前、写真・三浦良一)

八神純子が旅するルート66 (最終回)

上塗りされる歴史と守る歴史

 サンタモニカをスタートして10日。砂漠の中の1本道を1日何百キロもひたすら走り、日が暮れたら行き当たりばったりでモーテルに泊まり、いろいろな街を歩き、人と出会い、風景を感じながらのルート66の旅。シカゴまでの全ルートを走破したかったのだが、コンサートがあってニューメキシコから日本に帰らねばならなかった。

 なんとも悔しい。中途半端感が否めない。そもそも「ルート66の旅」というテレビ番組なのに、終着点の映像がないのも変な感じがする。それとなく、そんな気持ちを番組のスタッフに伝えると「分かりました。第2弾のメンフィス編はシカゴから撮影を開始しましょう!」と、嬉しい連絡が…。私はコンサートを終えて、シカゴに向かった。

 11月のシカゴの朝は想像していたよりもずっと寒かった。スターバックスを見つけると足早に駆け込み、温かいカフェオレを飲みながら撮影の段取りを打ち合わせた。地図によると、まずはお店から歩いて数分というルート66の始発地点を示す標識を探すことにした。 

 スマホのアプリには「ここ」とあるのに、見つからない。アリゾナやニューメキシコにはあったアーチやお土産屋さんなどもない。女性警察官がたまたま通りかかったので、「警察官なら知っているに違いない」と思って聞いてみても首を傾げて「さぁ〜、知らないわ。そんなサインがあるの?」と逆に聞かれる始末。

「でも、ほら、この交差点に…」とスマホを見せようと、身体の向きを変えた途端、ペタペタと貼られたステッカーに埋もれ「BEGIN HISTORIC 66」の文字がかろうじて見える標識を見つけた。「あった!ほら、見て!」と指さすと、警察官は「こんなところに!初めて見たわ!」と言いながら写メを撮り始めたので、思わず笑いが込み上げた。

 ミシガン湖畔にキラキラ光って立ち並ぶスカイスクレイパー、道路の真ん中に作った高架上を電車が走り抜ける…。かつてはルート66で西海岸に向かう人たちで賑わったはずの街に、ルート66のにおいは全くなかった。

 セルグのエンジェル・デルカディオさんのように、ルート66の歴史を大事にし、同じ思いをもった人とのつながりを大切にしながら生きる人たちがいる一方、快適性や利便性を求めて文明を進化させ、古い歴史を上塗りしていこうとする人もいる。ルート66の旅は、アメリカの奥深さや人のもつエネルギー、そして多様性の素晴らしさを教えてくれた。今回は走れなかったニューメキシコからシカゴまでのルート66を、いつか旅してみたいと思っている。     (おわり)

***

 6回にわたり「八神純子が旅するルート66」を読んで下さり、ありがとうございました。11月にはNYのBirdlandでライブがあります。よろしかったら私の歌を聴きに来てください。

(やがみ・じゅんこ、シンガーソングライター、ロサンゼルス在住)

9.11から四半世紀 失われた年月を思う

 初秋の蒼天が切り裂かれた「あの日」から間もなく25周年を迎える。事件は「911同時多発テロ」という名前で歴史に刻まれた。ニューヨーク市では、世界貿易センターのツインタワーがハイジャック機の突入により倒壊し、約3千名の犠牲者を出した。事件も、実行犯であるイスラム原理主義グループ「アルカイダ」の名前も歴史の彼方へ消えていった現在、世界を動かしつつあるZ世代に至っては、この日の記憶を持つものは少ない。そのZ世代の強い支持を背景にニューヨーク市は、イスラム系の市長を選ぶところまで来た。テロ被災の「傷」は癒えたという見方もできる。

 ツインタワー跡には記念館や鎮魂の池など追悼施設が完成し、タワー自体は「ワンWTC」という一棟にまとめられて再建された。その後のニューヨークは、2008年のリーマン・ショック、2020年に始まるコロナ禍と、ほぼ10年ごとに大規模な災厄に襲われ、その都度、街を再建してきたわけであり、そう考えると現在のニューヨークは、もはや911からは、かけ離れた場所であるとも言えよう。

 けれども、911で傷ついたのはニューヨークだけではなかった。傷ついたのは実はアメリカ全体であった。25年後の現在も、アメリカ全体を揺さぶり、壊そうとしている「分断」というのは、この911が原点だとも言えるからだ。

 25年前の「あの日」の直後、ニューヨーク近郊では多くの人が献血所に殺到していた。被災者への輸血ニーズが高まったからだが、同時に人々の間には強い不安感情があった。それは、衝撃的な事件を契機としてグローバル経済によるアメリカの繁栄が倒されるという不安だった。アルカイダなど、イスラム原理主義者が次々に攻撃を仕掛けてくる不安というよりも、アメリカが内部から崩壊することへの不安であった。

 崩壊は3つの「分断」という形で実際に起きていった。1つ目はアフガン、イラク戦争の勃発による「分断」である。ニューヨークの人々が献血に行列していた一方で、中西部を中心に「草の根保守」が大量発生していた。彼らは募兵所に行列して戦争に志願していった。被災地ニューヨークが心配していたのは、これであった。アメリカに残る開拓時代の気風は、報復衝動を抑えられない、そのような心配である。戦争はアメリカと国際社会を分断しつつ、原油価格をはね上げることで、クリントンの実現したポスト冷戦の平和と繁栄を壊してしまった。

 2つ目の分断は、リーマンショックとオバマ時代である。戦時不況から強引に景気を戻したブッシュの負の遺産がサブプライムローン破綻とリーマンショックであり、渦中の2009年に就任したオバマは最悪の不況から米経済を回復させることに注力した。運の悪いことにこの時期は国際分業とDXの加速の時代であった。サプライチェーンもDXも景気回復には必要だが、雇用低迷という強い副作用を伴っていた。憤った若者たちは、「占拠デモ」の旗を掲げるようになり、これが民主党左派として現在に至る別の分断の萌芽となった。

 3つ目はコロナ禍である。全米でいち早くクラスターの発生と大量死を目撃したニューヨークは、人命を優先して知的労働をフルリモート化した。これは都市昼間人口の激減から治安の悪化をもたらし、同時に現業労働と知的労働の間にある絶望的な格差を浮き彫りにした。

 この3つの分断を克服するどころか、むしろ利用する形で、右派ポピュリズムによる結集を狙ったのがトランプ運動だと言えよう。911からの25年、ニューヨーク自身は苦しみながら繁栄を維持してきた。けれども、そのニューヨークを起点とした動きが全米を揺さぶり、現在の分断社会を招いたとも言える。では、この先のアメリカにおいて、ニューヨークは何をしてゆけばいいのであろうか。マムダニ市長と同じ左派系で地元選出のオカシオコルテス議員などに徐々に大きな期待が寄せられる中、ニューヨーク発の左派運動が現実主義へ歩み寄って分断を緩和できるか、これがまず課題だ。次いで、AI革命が人類全体の生活向上に貢献できるか、この街ならではの理念と現実の調整力も問われてくる。

 911が契機となった分断により「失われた時間」をいかに断ち切るか、25周年にあたってニューヨークの街の責任は重たいものがある。

(れいぜい・あきひこ/作家・プリンストン在住)

日本の老後と相続対策 自宅でできる薬膳講座

大人の教養講座シリーズ
NY日系人会で10月3日開催

 ニューヨーク日系人会(JAA)と邦人医療支援ネットワークが共催する秋のヘルスフェア(後援・NY日本総領事館)で、今年も、NY日系ライオンズクラブが企画する「ライオンズ大学・大人の教養講座シリーズ」の対面式セミナーが10月3日(土)午後にJAA(西45丁目49番地5階)で開催される。

 午後1時から2時30分まで「2026年版、最新ニューヨークで考える日本の老後・相続対策」と題し、一般社団法人日本リレーションサポート協会代表理事の山口里美さんが講演する。続いて午後2時45分から午後4時15分まで「食べ方は、生き方 〜ニューヨークで元気に暮らす、二十四節気のおうち薬膳〜 」をおうち薬膳コンサルタントの曽谷由佳さんが講演する。両講師共にファーストブランド社(本社大阪市、河本扶美子社長)のマイベストプロが派遣する講師。両講座ともに参加無料。休憩時間には、スナック、飲み物が提供される。

 また、両講師から先着50人に特別プレゼントが用意されている。山口さんは、「もしもの時の安心カード(英語版)」を、曽谷さんからは「NEW YORK おうち薬膳レシピBOOK〜いつものスーパーから始める、季節のやさしい薬膳レシピ〜」を贈呈する。当日は各講師の個別相談もある(申し込み順で人数制限あり)。講演会参加には、NY日系人会へEメール[email protected] で申し込みが必要。

(写真)左・曽谷さん、右・山口さん

NY日本人美術家協会 第54回展覧会を開催

 第54回ニューヨーク日本人美術家協会(JAANY、レオナート古川文香会長)の年次展覧会のオープニングレセプションが4日、天理文化協会ギャラリー(西13丁目43A番地)で盛大に開催され、約350人の来場者で賑わった。今年のブレッチャー賞にはヘンデル佳奈さん、末村敬三賞に山本かりんさんが選ばれそれぞれ賞状を受けた。

 当日は、国際連合日本政府代表部の山﨑和之国連大使、在ニューヨーク日本国総領事館から広報センター次長の藤内綾領事、島津聖太朗領事が来賓として出席した。ニューヨーク総領事の片平聡大使は、レセプション当日が出張日と重なったため、開催初日の1日に会場を訪れ、古川会長の出迎えを受けて出品作品を1点1点丁寧に鑑賞した。

 同会は定期活動する現存のNYの日本人美術団体としては最大で最古の歴史を持つアーティスト集団。チャリティー小作品の売り上げの半額は、熊本の地震災害被災者に送ることになっている。展覧会は12日(土)午後3時まで。入場無料。

北米最大規模の日本漫画展 ブルックリン美術館で10月3日から

 ブルックリンミュージアム(200 Eastern Parkway)は、漫画の特別展を含む今秋の展示スケージュールを発表した。

 10月3日から2027年1月31日まで、グレート・ホールで開催の「アート・オブ・マンガ」は、同館曰く北米で過去最大規模の展示会で、漫画の没入感や社会的影響を有名作品の原画を含む600点以上の作品を通して紹介する。

 現代漫画の基礎を築いたストーリー展開の巨匠「ちばてつや」とギャグ漫画の王「赤塚不二夫」、伊藤潤二、亜樹直、オキモト・シュウ、とり・みきとマザキマリのコラボ作品、そして東京港区の集英社マンガアートヘリテージは尾田栄一郎の「ワンピース」をはじめ池田理代子の「ベルサイユのばら」、久保帯人の「BLEACH」、アーティスト田名網敬一と赤塚不二夫のコラボ作品を次世代に継ぐ芸術形式として提供する。

 同時開催の「マンガ・ビフォー・マンガ:ジャパニーズ・アート・フロム・ザ・コレクション」は漫画の歴史的ルーツを探る。同館サイトはコスプレ入場も歓迎と伝えている。

 詳細は公式サイトhttps://www.brooklynmuseum.org/ja-JP/exhibitions/mangaを参照する。

岩田華怜の舞台 「10年後の君へ2026」

23日にNYでプレミア上映

 女優の岩田華怜が23日午後7時から、イーストビレッジのミドルチャーチ(東7丁目50番地4階)で、岩田自身で脚本・演出を手がけた舞台「10年後の君へ 2026」のチャリティー上映会を開催する。入場無料。演奏会に続き上映は午後7時30分から。

 岩田は2011年に地元仙台市で東日本大震災を経験した。その後数週間の避難生活を経て、AKB48としてデビューするが、そのとき以来、自分が経験したこの震災の記憶を、なにか作品として残したいと言う強い思いがあったという。100回を超える被災地訪問や取材を経て、時間をかけて自分の中で物語を組みたてていき、気づいたら筆を取っていたという。大学2年生のときに、ワンルームのアパートで書き終えた作品だそうだ。

 東日本大震災に関連する出演作品としては2024年公開の堀江貴監督の映画「最後の乗客(ラストパッセンジャー)」があるが、自身自らの念願の作品を米同時多発テロから25年の節目にNYでプレミア上演として世に問うのは初めてで本人にも熱い思いがある。この会場で集めた寄付金は、7月に発生した令和8年熊本地震の被災者へ義援金として寄付する。

 「震災の記憶や命の大切さを後世に語り継ぐ目的もあり、ニューヨークに住む子供たちや、世界中の人たちに届けたい作品でもある。ニューヨークでも、25年前の9月11日に起こった同時多発テロ事件で、たくさんの人が亡くなった。震災に関わらず、今自分たちが生きている今日は、震災や戦争により命を落としたたくさんの人々が、『生きたかった今日』だ。このチャリティー上映会では、そんな私の思いを、ニューヨークの皆さんに伝えられたらと思う」と話した。当日は上映会のあと交流会がある。

ファッション最先端の髪型を作る 小室しほりさん

セッション・ヘアスタイリスト

 ニューヨーク・ファッションウイークがやってくると、目まぐるしく忙しくなるのがセッション・ヘアスタイリストと呼ばれるヘア・デザイナーたちだ。普段は雑誌のモデルの髪型を作るが、ショーになるとランウエーを歩くモデルたちの髪をムードボードに従って手際よく短時間で作り上げていく。ムードボードとは、その撮影をこういう方向性で進めたいという資料のようなもので、文章のみだとイメージに差が出るので通常は主に画像を共有しているという。

 ニューヨークでセッション・ヘアスタイリストとして活躍している小室しほりさん(37)は、雑誌やファッションショーに特化したヘアーをそれぞれのステージに合わせた髪型を作っている。埼玉県出身で高校卒業後、都内の美容学校を卒業し、都内サロンで 10 年以上の美容師経験を経て、セッションヘアスタイリスト TAKESHI に師事し、独立後 2024年に来米した。

 アメリカに来るきっかけとなった動機は、日本の雑誌などを見ていて、この髪型は、髪を切る事でこうすれば作れるとわかるのに、 海外の雑誌で見る髪型にはそれがわからないものが沢山あったことだ。かっこいいなと思うスタイルを作っているヘアースタイリストがニューヨークにいる人が多かったこともある。ヘアデザイナーのアシスタント時代に、周りで活躍しているデザイナーたちの多くが、海外での仕事を経験していること、この仕事には海外のトレンドや感覚が必要だと感じたこともニューヨークに来た動機だったという。

 日本の女性ファッションは、「カワイイ」が一番の褒め言葉になっていて、特にヘアスタイルは、カワイイ系が主流。綺麗系も、ファッションと同様に、全体的にまとまっていて、その日の気分やTPOに合わせて綺麗に演出していることが多いが、アメリカに来て思ったのは、日本よりも中性的であり、かっこいい、汚くてもそれでいいと言ったバリエーションが存在していることだった。

 小室さんの活躍の場所は主に雑誌だが、 ファッションショーなら服に注目がいく髪型を。 雑誌はその媒体によるが、ヘアーにフォーカスしているストーリーの場合は作りこんだヘアーにもするそうだ。今年のファッションウイークもいくつか参加予定だが、ギリギリに決まることも多い。 今年はインディペンデントデザイナーのショーを手伝う予定だという。「将来はこれまで携わったことのない雑誌や媒体の撮影にも挑戦してみたいですね」と語った。

 (三浦良一記者、写真も)

第6回ジャパンビレッジ夏祭り 踊って食べてニューヨーカー

日本の地方都市文化の魅力を体験

 日本の夏の風物詩である夏祭りの文化をニューヨーカーに紹介するイベント「ジャパンビレッジ夏祭り」が8月29日、ブルックリン区サンセットパークにある日本文化発信のための複合商業施設ジャパンビレッジの中庭で開催された。

 今年は「日本の地方都市文化の紹介」をテーマに、青森、盛岡、山形、広島、山口、長崎などの都市が参加し、各地の郷土芸能の披露や観光案内を行い、日本のさまざまな都市の魅力をニューヨークで発信した。

 青森県は、県内の地酒「田酒」「八仙」「杉玉」などの試飲会を行い、黒石市名物の盆踊り「黒石よされ」を披露した。山形は、酒田地方の名物、酒田米菓の「オランダせんべい」の試食販売、花笠踊りを紹介した。広島市は「広島風お好み焼き」、そして長崎市は「長崎ちゃんぽん」をブース内で調理販売し、地域の名物グルメを紹介し観光案内プロモーションを行った。ちゃんぽん麺は、ちゃんぽん発祥の店の「四海楼」から直接仕入れ、長崎から直送した本場の麺。

 なかでも、会場を沸かせたのは、2024年にNYタイムズ紙で「行くべき52か所」に選ばれた山口市が行ったダンスコンテスト。昨年に続き2回目の開催となったこのコンテストは、山口市の伝統芸能の踊り「大内の殿様」をニューヨーカーと一緒に踊り、踊りの上手さや表現力を競うもので、100人近くの観衆が参加した。ニューヨーク山口県人会などの審査委員が、まず11人を1次審査で選出。その11人がステージに上がり2次審査の踊りを行い、最後の3人まで絞られた。その3人で最終審査の踊りを踊り、接戦の末にブルックリン在住のジョナサン・ギブスさんが優勝した、ギブスさんは賞品として山口旅行が進呈された。

(写真上)山口市「大内の殿様」ダンスコンテスト

 そして最後に会場を沸かせたのは、今年で4回目の開催となる「盛岡わんこそば大会」。盛岡から参加した本場のわんこそば店「東家」の馬場暁彦社長が監修のもと、200人以上の参加希望者の中から抽選で12人を選出し競技を行った。最後の第4グループで1分間に25杯を食べた2人の参加者が同杯で1位になり、延長の優勝決定戦に突入。最終戦は観衆からの大きな声援で熱戦となった。こちらも接戦の末、ブルックリン在住のマイケル・オルティスさんが29杯で見事に優勝。賞品として日本行き航空券を手に入れた。

 当日は晴天にも恵まれ多くの来場者が訪れ、日本紹介に関する数多くのブースや屋台などが出店。子供たちによるスイカ割り大会なども行いお祭りを盛り上げた。フィナーレでは、「炭坑節」や「東京音頭」など、夏の風物詩である盆踊りを来場者と一緒に踊り、今年の夏に終わりを告げた。 (写真・柏原雅弘)