敵はコロナ。倒す。

メトロノース鉄道にスーパーヒーロー

 ニューヨーク市の都市交通局(MTA)は15日、新型コロナウイルス感染予防対策として、メトロノース鉄道の駅のホームや電車内でマスクを配布するロボット型キャラクターをツイッター上で紹介した。

 胸部にメトロノースのロゴを掲げたメタリックなロボコップ風の同「メトロ・マン」は、子どもたちに鉄道安全を推進する教育イニシアチブの一環として、1983年に初めて登場した。同初代は、映画「スターウォーズ」のR2-D2からヒントを得て、遠隔システムを備えた実際のロボットを使っていたという。同ロボットは現在、都市交通局(MTA)博物館に展示されている。

 MTAは「メトロ・マンの助けもあり、15日の1日で500万枚以上のマスクを配布できた」と発表した。次回のメトロ・マンの登場は、29日メトロノース鉄道のハーレムラインのノース・ホワイトプレーンズ駅で午前8時から9時30分を予定している。

ペンキかけ止まらない

トランプタワー前BLM

黒人差別の蛮行

 マンハッタン五番街にあるトランプタワー前の道路に描かれた「ブラック・ライブズ・マター(Black Lives Matter=黒人の命も大事だ)」のスローガンが18日、前日に続きまたペンキで汚された。午後3時ごろ黒色のペンキをかけたもので、市警は女性2人を逮捕した。

 女性の一人は黒人で拘束時に「彼らは黒人の命を大事にはしていない」などと訴えていると同時に「イエス(キリスト)が大事だ」「我々はブラック・ライブズ・マターは支持しない」と叫んでいた。

 スローガンはデブラシオ市長も参列し今月9日に完成、ペンキをかけられたのは13日が最初で1週間で3回も起きたことになる。13日に赤いペンキをかけた男性は捕まっておらず警察が行方を追っている。17日は男性(44)と女性二人(25と39)が青いペンキをかけた。一人は「オール・ライブズ・マター」と書かれたシャツを、別の一人はトランプ大統領支持を示すシャツを着ていた。3人は器物破損の容疑で逮捕、起訴された。

 同じ時間にチラシを撒いていた女性(64)は違法配布の容疑で召喚状が発行された。警察が発表した資料によると、ブルックリンで13日に起きた銃撃事件に巻き込まれ死亡した1歳の子供の写真に「私は警官に殺されませんでした。私は黒人に殺されました。BLMはどこ?」などと書かれていた。

 ブラック・ライブズ・マターのスローガンはジョージ・フロイドさんの死亡事件以降、ワシントンDCやロサンゼルス、シアトルなど全米各地に描かれた。ニューヨーク市ではクイーンズやブルックリンでも描かれている。

関連記事:1週間で3度ペンキかけられる

(写真)赤いペンキをバケツで撒き散らす男性(13日午後、市民撮影の動画から)

タイ人シェフ・アリソンの 家庭で作る本格パッタイ

プロに聞く、生き生きEATS(イーツ)

元気と美味しいを求めて料理の達人が腕を振るう (4)

 数あるエスニック料理の中で人気が高いタイ料理。今回はNJでクッキングスタジオを主宰するシェフ・アリソンがタイ料理の特徴と、一番人気パッタイの作り方を紹介する。

 「タイの伝統的な調理方法は地元食材を使用した煮込み、蒸し焼き、グリルが中心で、味付けは各種ハーブ、フィッシュソース、エビのペースト、醤油、パームシュガーを使い、深みのある風味が特徴です。それに中国の影響で揚げ物、炒め物が加わり、17世紀以降にはポルトガル、オランダ、フランス、日本料理の影響も受けています。コース料理ではなく、料理を一度に提供することで、さまざまな味わいの組み合わせを楽しめるのもタイ料理の特徴です。味と食感の調和と甘味、酸味、塩味、苦味、うま味、香りのバランスがタイ料理の人気の秘密とも言えます」。

 今回紹介するパッタイの正式名称は「クイティオ・パッ・タイ」、ライスヌードルのタイ風炒めという意味で、タイでは食堂はもとより、道端の屋台でも大人気の国民的料理だ。味付けの要はマメ科の植物タマリンドの果実をペースト状に加工した「タマリンド・ペースト」で、これがなくてはパッタイとは言えないらしい。適度な酸味を持つ独特な風味が特徴で、種がたくさん入ったキャラメル状のものをお湯に溶いて、種を除いて使う。

 そしてもう一つの隠し味が「Sweet Preserved Radish」福神漬けと食感が似ている大根の甘い漬物で、手に入らなかったら入れなくても良いが、加えた方がより本場の味に近づく。また、タイ料理でよく使うパームシュガーはその名の通りヤシから採取した砂糖で、白砂糖よりもまろやかな甘みを持ち、血糖値を上げにくい低GI(グリセミック・インデックス)食品としても注目を浴びている。パームシュガーは大手スーパーマーケットで入手可(ココナッツシュガーとは違うので要注意)。タマリンド・ペーストとSweet Preserved Radishはアジア系の食材店、またはAmazon.comで買える。


アリソン・パール・ヤスキー

 プロフィール タイ北東部出身。元ミス・タイランド。Le Cordon Bleu (London) 、French Culinary Institute (LA / NYC)で学んだ後、ロスやNYでプライベート・シェフとして活躍、FOX 5やNY1などニュースに若手人気シェフとして登場。現在はNJの自宅クッキングスタジオでタイをはじめイタリアンやフレンチ、アメリカンなど幅広い料理教室と出張シェフ、ケイタリングをこなす。*現在コロナの影響で室内での料理教室は開催していないが、屋外キッチン及び出張、ZOOMでの教室などを行っている。
ウェブサイト:www.pearlcookingstudio.com  
問い合わせ:[email protected]


■材料(4人分)
ライスヌードル(細) 250g
エビ 1パウンド(洗って背ワタを取る)
卵 2個
厚揚げ角切り 100g
もやしまたは細切りニンジン 100g
エシャロット粗みじん切り 50g
青ねぎ 2〜3本
ニンニク 3片みじん切り
好みでSweet Preserved Radish 1/4カップ
クッキングオイル 大さじ4

■調味料
タマリンドペースト 1カップ
(1カップのお湯に溶いて種を除く)
醤油 3/4カップ
パームシュガー 1カップ
トウガラシ 1〜2本(種を取る)

■薬味用
コリアンダー、クラッシュド・ピーナッツ、ライム

<作り方>

1 ライスヌードルを茹でる。
2 調味料の材料を鍋に入れよく混ぜて5〜7分煮て、こしておく(パッタイソース)
3 大きめのフライパンを熱しニンニク、エシャロット、Sweet Preserved Radish、エビ、厚揚げ、ニンジンを強火で炒める。別の鍋でスクランブルエッグを作る。
4 湯切りしたライスヌードルを上記フライパンに加え、弱火にしてパッタイソースを全体にからめた後中火にして1〜2分炒める。
5 スクランブルエッグを加え、好みの味に整える。
6 青ねぎ、もやしを加えて出来上がり。薬味としてコリアンダーやクラッシュド・ミーナッツ、ライムを添える。

反戦と反核、永遠の愛に生きて

アーティスト 飯塚国雄の死を悼む

百田 かずこ(ひゃくだかずこ)

 飯塚国雄さんと初めて話をさせていただいたのは2009年頃、ニューヨーク日本人美術家協会(JAANY)年次展のレセプション会場(天理ギャラリー)であった。遠くのほうで目が合うと、ワイングラスを片手にニコニコと近づいてこられ「どうですか、楽しんでますか」と会話のきっかけをつくってくださったた。後日談になるが「僕は女性には誰にでもニコニコするんだ」そうな…。一方で、当時は最愛の奥様がご自宅療養中で、制作スタジオもオーチャード通り(マンハッタン)から引っ越さねばならず、ご苦労の多い日々であったことは察するに余りある。飯塚さんとの遭遇以来、あの柔和なスマイルは私自身が次に進むためのパワーとなり、退屈だった日常を多彩で刺激的なアートの世界へと導くことになる。

 JAANYや飯塚さんの作家活動に関わるようになったのは2012年頃からである。それまで私はメールやスマホのなりすまし役であったが、飯塚さんはJAANYに若い会員を増やしたいという強い願いをお持ちだったので「それなら堂々とサポートできるようメンバーになれば」とご本人や理事の方々に誘われた。横丁の職人の娘が側女に抜擢された時代劇のような場面を楽しんだ。理事会の戦略が実り、徐々にではあるが力のあるニューメンバーも加わってきた頃、日本クラブの本多康子ディレクターから飯塚さんに企画展の打診があった。戦後の50年代から70年代にかけて日本からニューヨークに渡ってきた芸術家たちの展覧会はどうかと。ついてはJAANYゆかりの作家たちとその作品を広く紹介したいということであった。

「ブルックリンブリッジの恋人たち」(2003年、版画)

 飯塚さんは1961年、貨客船サントス丸に乗って西海岸に上陸。ニューヨークにやってきたのは64年であった。私は99年に移住するも「仕事はもういい、好きなことだけしよう」と怖いもの知らず。飯塚さんの事務方として呼ばれた日本クラブでの会議の席上「彼女(私)は僕らの時代の芸術活動を記録として残すために日本から呼ばれたんだと思うよ」と恐れ多いことをおっしゃる。そして開催が決まった。

 2014年6月19日からの4週間、日本ギャラリーでの「海を渡ってきた芸術家たち」展では、福田春人・福田隆之・飯塚国雄・木村利三郎・小西雪村・満志子・宮本和子・森本洋充・ロス郁子・作山畯治・佐藤正明・篠原有司男・末村敬三・分嶋健介・和田スティーブら15名の作品が展観された。この評判が功を奏し、翌2015年、同様の企画展パートⅡが開催の運びとなった。川島猛をはじめとする総勢25名の作家作品が展示され、2回のアーティストトークも盛況であった。飯塚さんはこの時期、JAANY創設時のコンセプト「在米日本人作家の支援」を日系美術史上に残るイベントとして結実させたのだ。

Central Park Autumn 9×12”

 企画展パートⅡと前後して準備していたのが、亡き愛妻れい子さんに捧げる回顧展 HALF A CENTURY IN NEW YORK (2015年8月・天理ギャラリー)。会場には、80年代の都市の混沌を描いた地下鉄シリーズ、国連での個展 (1995)出品作品を含む反戦・反核シリーズ、同時多発テロの鎮魂歌 9・11 シリーズ、家族への慈愛にあふれた愛のシリーズ、幸せを呼ぶハトがモチーフの平和シリーズなど、ニューヨーク在住50余年に及ぶ制作活動の軌跡が壮大な時空を創出した。

 飯塚さんは、最後まで共に暮らすことがなかったお父上が被爆者であると告げられたとき、反戦・反核シリーズに挑み始めた。大作を中心とするこのシリーズ11点は、長崎県美術館に所蔵 (2015)され、長崎の地に眠るお父上に寄り添っている。飯塚さんも今頃は、愛するれい子さんと一緒に長崎を訪れているのではないだろうか。そこには、ガン疾患を顧みず横浜港から希望の大地へと飯塚さんを送り出してくれたお母上も待っているに違いない。愛は永遠。魂は不滅だ。(ひゃくだ・かずこ/アート・ディレクター)

長崎県美術館 所蔵リスト

https://www.nagasaki-museum.jp/museumInet/coa/autGetByArt.do?command=view&code=51777


投稿・天国へ旅立った友

 芸術家、飯塚国雄さんが亡くなったと新聞で知った。さよならを言えなかったので、せめて思い出を語りたい。

 刀の趣味が高じて鑑定士になり、刀コレクターに教授をしていた頃、武道好きの友人と刀捌きを見せてもらった。飯塚さんはTシャツ姿だったが、侍のように見えた。人伝に、相当な刀の知識の持ち主と言うことだった。

 マンハッタンで個展をしたときに、「ひまわり」の絵を買った。絵の横に赤いシールが貼られると、「飯塚の絵が売れた」と街中にニュースが流れた。個展が済むと、奥さんが草餅大福を届けてくれた。セントラル・パークで蓬を見つけたので作ってみたそうだ。大福は春の香りを放っていた。

 奥さんが亡くなると三年間喪に服した。それが済むと近くのシニアセンターで友人のピアノの伴奏で歌って皆に聴かせていた。「枯葉」が十八番だと言っていた。テープを箱一杯買い、カラオケにかよって練習した、とテープの山を見せてくれた。別の曜日には、ダウンタウンのシニアセンターの油絵教室に行き、先生に頼んで自由に油絵を描かせてもらえる、と張り切っていた。「プロの特権なんだよ」と笑っていた。

 飯塚さんは欲得がなく、静な人でも、明るさが漂っていた。持病で苦しんでいる時でも、「医者が新薬を見つけて試しているところだ」と希望を捨てなかった。しかし、とうとう奥さんが待っている天国へ旅立ってしまった。とても忘れられない良い友達だった。(長澤泰子/アート・ヒストリアン)

SOHOの板張りアート バスキアを見た思い再燃

アーティストと語らい撮影に応じる海老原さん(中央)

温かく見守ったギャラリー91オーナー

海老原 嘉子さん

 ソーホーで1983年以降、デザイン専門のギャラリー91をオープンし、オーナー、キュレーターとして活動、88年にはニューヨークのデザイン界の発展に大きく貢献したことが評価され、日本人初の名誉ある賞「ブロンズ・アップル・アワード」を受賞した海老原嘉子さん。

 ギャラリーの目の前で起こったBLACK LIVES MATTERの黒人差別抗議デモから勃発した暴動と略奪。その傷跡の深さは、今なお、ソーホーの目抜き通りであるブロードウエーが板張りバリケードで閉鎖されていることからも伺い知ることができる。

 そんなソーホーの壁を選り抜きのアーティストたちがウエストウッドギャラリーの支援を受けて描き始めた。アートが街角に並んだのを温かく海老原さんは見守ってきた。「なかなか楽しい壁になって、フィルムを撮ったり、昔のバスキアやキース・ヘリングの活躍した頃を思い出すようなエネルギーを感じて面白くなって来ている」とソーホーがアートの震源地であることを彷彿させるハプニングが続いた3か月でもあった。

 ニューヨークが経済再開のフェーズ4に20日から入るのに先立ち18日夕、ソーホーで板張りアート参加アーティストたちの打ち上げ反省会集会が開かれた。

 「毎日代わり番こに描いていたので、それぞれのアーティストとも知り合い、これは良い題材と思いますが、趣旨が最初の暴動の後の板張りアート「Black Lives Matter」とはかけ離れていって、アーティストがキャンバスを与えられて、描きたくて発散したいエネルギーをぶつけていたような感じですね。そして皆に見てもらい将来を探したいといっていました。私はバスキアやキース・ヘリング達を最初から見ていたので、時代が違っても、2020年のストリート・アーティストとして、この動けない世界でアートにぶっつけてるエネルギーみたいなものを感じ、残したいと思って見ていました。84、85年頃、ソーホーのギャラリー91の前をウロウロしていたバスキアが、NYタイムズにピックアップされたと喜んでいたのを知り、その後レストランの入り口で、アンディーウォーホルを待っているのに何度か出くわしたり、バスキアのバースデイ パーティーに呼ばれ、ポスターにアンディーウォーホルと2人のサインをしてもらったり、その頃、ブルックリンのデザインセンターで行われたアートやデザインイベントの帰り、たまたま2度ほど、バスキアを車で、グレート・ジョーンズストリートのロフトまで送ってあげた事など40年近く前のあの頃を思い出す様なエネルギーを、このSOHO PUBLIC ARTIST達に重ねて見ています。このコロナの息を潜めて暮らしている様な時期、絵を描きたいという情熱で、描ける板塀があると夜遅くまで、描き続けているアーティスト、ほとんど死んでる様なソーホーの街の一角に、皆足を止め、写真をとったり、笑顔で見ている人々。未来に何か光を見つけれる気がしたのは私だけではないのではと思いました」。

シュワっと爽やかな喉ごし エスプレッソ・コーヒー・ソーダ

 シュワっとした喉ごしで、暑さを吹き飛ばしてくれるノンアルコールの飲み物。一口飲んで、その深い味わいと清涼感に覚えた久しぶりの衝撃。それが、マンハッタンスペシャル社が作る「ピュア・エスプレッソ・コーヒー・ソーダ」。

 ブルックリン・ウィリアムズバーグの外れを走るマンハッタンアベニュー沿いに工場を構えていることからその名が付いたというこの会社は、1895年から続くファミリービジネス。コーヒーへのこだわりを持つイタリア系移民が、アメリカのコーヒーの味に馴染めずに作ったのがその始まりという。ソーダをいっぱいに詰め込んだ木のケースを積んだバギーを馬が引いて配達していた時代には、ニューヨーク中のデリで目にしたというこのソーダも、今では取り扱いは特別なお店に限られている。

 手動で焙煎した良質なコーヒー豆と厳選されたさとうきびなどを混ぜ合わせて当時から変わらぬ製法で作られたソーダは、一度はぜひ口にしたいニューヨークの歴史を紡ぐ数少ない飲み物。オンラインでも購入可能、12瓶で17ドル95セント。(須能玲奈)

編集後記 7月18日号

みなさん、こんにちは。留学生へのビザ発給を制限すると発表していた米移民・関税執行局(ICE)が14日、制限を撤廃すると発表しました。規制の一時差し止め請求をしていたハーバード大学、マサチューセッツ工科大学と和解したとのことです。当初、9月からの新学期にオンラインのみを履修する留学生には、F1(一般学生向け)とM1(職業訓練プログラム受講者向け)のビザを発給しない方針を打ち出し、すでにビザを取得していても、オンライン授業だけを受ける留学生は出国しなければならず、留まるには対面授業を行う教育機関に編入しなければならないなどとしたのですが、新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐため多くの大学や教育機関が9月以降もオンライン授業を継続すると発表していたので大混乱をきたしました。新学期からもすべての授業をオンラインで行うと発表していたハーバード大学とマサチューセッツ工科大学(MIT)が8日、新規則の一時差し止め命令を求める訴訟をボストン連邦地方裁判所に起こしていたわけです。12日にはイエール大学やスタンフォード大学、メリーランド州立大など59もの大学が両大学を支持する法廷助言書を提出し、そして州も動き、カリフォルニア州のザビエル・ベセラ司法長官は9日、学生に対面授業への出席を強いる新規制は多くの人々を感染リスクにさらす恐れがあるとして、差し止めを求めトランプ政権を提訴したのです。ICEの撤回で、一見落着のように見えますが、ちょっと気になるのは、肝心のトランプ大統領自身が、政権としての撤回を正式にはまだ発表していないことです。政権直下の米移民・関税執行局(ICE)がボストンの裁判所と和解、ビザ発給制限を撤回というのが16日現在の正確なところです。トランプ大統領はだんまりです。裁判所の判断を大統領がどう受け止めているかまだ予断を許しません。新型コロナウイルス対策のビザ発給制限でしたが、トランプ大統領自身がマスクをしている姿を未だかつて見たことはありませんし。コロナの先行きも大統領選挙の見通しも、予測と現実の乖離が大きそうで先が読めません。それでは、みなさんよい週末を。(「週刊NY生活」発行人兼CEO三浦良一)

【今週の紙面の主なニュース】(2020年7月18日号)

(1)学生ビザ発給停止を撤回   1面
(2)大統領「五番街を汚すな」  1面
(3)ブルックス・ブラザース倒産 3面
(4)飯塚国雄さん死去      4面
(5)ネオワイズ彗星が出現    5面
(6)生卵かけご飯がうまい!   8面
(7)日本クラブがオンライン公募展9面
(8)トランプ大統領暴露本    10面
(9)帰国子女説明会       13面
(10)ニューヨークの魔法     20面

発給停止を撤回

米国留学ビザ

全米17州が提訴
オンライン授業可

 トランプ政権は14日、留学生へのビザ発給を制限すると発表した規制を撤回した。新規則は6日に米移民・関税執行局(ICE)が発表、9月からの新学期にオンラインのみを履修する留学生には、F1(一般学生向け)とM1(職業訓練プログラム受講者向け)のビザを発給しない方針を打ち出し、すでにビザを取得していても、オンライン授業だけを受ける留学生は出国しなければならず、留まるには対面授業を行う教育機関に編入しなければならないなどとしていた。

 新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐため多くの大学や教育機関が9月以降もオンライン授業を継続すると発表しており、新学期からもすべての授業をオンラインで行うと発表していたハーバード大学とマサチューセッツ工科大学(MIT)が8日、新規則の一時差し止め命令を求める訴訟をボストン連邦地方裁判所に起こし、12日にはイエール大学やスタンフォード大学、メリーランド州立大など59の大学が両大学を支持する法廷助言書を提出した。

 州も動き、カリフォルニア州のザビエル・ベセラ司法長官は9日、学生に対面授業への出席を強いる新規制は多くの人々を感染リスクにさらす恐れがあるとして、差し止めを求めトランプ政権を提訴した。同州では2019年時点で留学生が約16万2000人いる。13日にはニューヨーク州のレティシア・ジェームズ司法長官も独自にマンハッタンの連邦地方裁判所に提訴したと発表した。訴状で「公衆衛生を危険にさらすだけでなく、毎年ニューヨークで勉強する10万人を超える留学生の移民状態を脅かす」としている。

 同日にはニュージャージーやコネチカットなど17の州とワシントンDCも同様の提訴に踏み切った。民主党が主導した取り組みで、取りまとめをしているマサチューセッツ州のマウラ・ヒーリー司法長官は提訴発表の声明のなかで「トランプ政権は、この無意味な規則の根拠を説明しようとさえしなかった」と非難した。17州とDCには2019年時点で37万3千人の留学生が在籍している。イェール大、ラトガース大、メリーランド州立大など約40の高等教育機関がこの訴訟を支持するとの声明を出していた。

 トランプ大統領は「もし再開しないなら、(教育)予算を打ち切るかも知れない!」と8日にはツイートするなど対面授業の早期再開を強く求めていたが、撤回に追い込まれた。11月の大統領選挙に向けて経済回復や学校の正常化をアピールしたいと見られ、慎重姿勢の民主党と対立している状態だ。

 米国の大学には2019年時点で約110万人の留学生が在籍。提訴したハーバード大で10%、MITで12%を留学生が占める。新規制が施行されれば留学生の激減は避けられず、多くの大学で収入が大幅に減少するには必至だ。なお留学生の3分の1強の約37万人は中国人が占めている。発表から1週間、翻弄された国内外の大学、留学生に安堵が広がった。

トランプ大統領 「五番街を汚すな」

BLACK LIVES MATTER

 ニューヨーク市は9日午前、黄色い巨大な文字で「ブラック・ライブズ・マター」のスローガンを五番街55丁目から57丁目までのトランプタワー正面の路上一面に描いた。

 市では現在、ビル・デブラシオNY市長の許可を経てブルックリン、マンハッタンなど市内5区の路上に黒人差別抗議のスローガンであるこの文字を描いている。当日は、市長自身も黒人人権運動の指導者であるアル・シャープトン氏と共に路上ペイント作業に参加し、袖まくりをしてマスク姿で冒頭ペイントした。

 「トランプ大統領は先週、私たちが、ラグジュアリーな五番街を汚すと批判してツイートしたが、私たちは、五番街を汚しているのではなく、五番街の自由と活性化を促しているのだ」とスピーチした。(写真・三浦良一)

ブルックス・ブラザーズ再建の行方

イケメン男子服飾Q&A 83
ケン 青木

  アメリカの企業では稀な創業200年を祝って間もないブルックスブラザーズ社が経営破綻。連邦破産法第11条、いわゆるチャプター11の申請で再建を目指しますが厳しい道のりが予想されます。1990年代以降の30年間、同社は親会社となった外資の方針で急速な店舗数拡大政策を続けて来ました。当時内部にいた僕はNOの意思表示をしましたが、極めて少数派でした。そして投資による店舗数急拡大の目玉がカジュアルウエアの拡充とレディースの強化、そのためにアン・テーラーのトップをスカウトし、レディースのチェーン・ストアの運営ノウハウを紳士服の専門店に導入したのです。この様な手法は、3年間は店舗拡大による売り上げ増による「目眩し効果」が期待出来るのですが、四年、五年と経過するに連れて「筋肉質」の経営をしていないと必ずボロが出て来るのです。そしてその次はアウトレット店増。因みに現在アメリカ国内で正規、アウトレット店合わせて250店舗と言われおりますが、40年前日本でビジネスを始めた際、青山店が20店舗目、つまりアメリカ国内に19店舗しかなかったのでした。創業160年で20店舗だった経営がそれから40年で12倍、世界では25倍の数に増えたということなのです。日本でのビジネスは順調で、たったの一年で黒字化。以降連結決算でアメリカ本国の赤字を補填して余るものがありましたが、その頼みの日本がこの3年間ずっと赤字で急速に数値が悪化しての結果だったのでした。こうした経営のために製品の質も高級でもなく、その割に値段も安価ではないという中途半端なマーケティングとなってしまったのでした。

 ブルックス・ブラザーズ社は1818年、アメリカ建国から40数年を経た状況で、英国からの移民であったヘンリー・サンズ・ブルックスによって、ニューヨークのローワー・イーストサイド、キャサリン・ストリートとチェリー・ストリートが交差する北東の角にH&D.H.Brooks&Coとして開店しました。創業者の息子達が共同経営する様になりブルックス・ブラザーズと改称。19世紀当時のニューヨークではヨーロッパとの交易船は全てイースト・リバーに入って来たので船から荷を下ろし直ぐ店頭に並べられる便利なロケーションだったのだと(笑)。当時の船はまだ現代の様な大きさでなく、川底が浅いイースト・リバーでも大丈夫だったのでした。

 ブルックス・ブラザーズ社は創業当初から英国系移民らを対象に様々な英国製の衣料品・洋品を仕入れて販売すると共に紳士服店としてテーラード・クロージングの開発にも熱心に取り組んだのです。当時からビジネスで人と物の出入りが多いニューヨーク、多忙を極めるビジネスマンのために短い日数で納められる「既製服」のスーツやジャケットを世界で初めて開発したのです。御手本は英国の紳士服でした。当時は英国の紳士服も「スーツの勃興期」、男性のスーツとは実は軍服を「民間用に改造」したものなのです。19世紀半ばから20世紀に至るヴィクトリア女王治世下は大英帝国最盛期、世界中に植民地を持ち、支配するにあたり、円滑なビジネスのため軍服ではなくスーツが求められる様になりました。

 英国の紳士服は男性を立派に魅せてくれます。それは、(1)背筋を伸ばした状態で最もフィットする様仕立て、(2)肩にはパッドを入れ、(3)ウエストを絞り胸部を強調など、男性の身体的、精神的逞しさを表現していることによるのですが、ブルックス・

ブラザーズの紳士服は生地、素材は英国伝統のものを踏襲しつつも、英国紳士服における権威主義的思想の真逆を行ったのです。それは(1)息を吐いてリラックスした状態でフィット、背中の丸みを強調し、(2)ナチュラル・ショルダーと呼ばれるパッドを極力排したソフトな仕立て、さらには(3)ウエストをあまり絞ることなく、全体に穏やかでより親しみが持てる「雰囲気」を心掛けたのでした。資本主義の時代、お互いより信頼感を高め、本音でビジネス・トークをしようという目的のためにです。

 19世紀末当時としては正に画期的だったボタンダウンカラーのシャツについてもそうなのですが、着心地の良さと見映えに細心の配慮をしつつ、常に時代の少し先を行く素材を導入しつつ革新的製品を提供し続けてきたことが同社が長くビジネスを続けられてきた「本当の理由」だったのですが、この数十年、前述した様な状況であったのでした。伝統をただ守るだけでなく、「革新し続ける伝統」に戻れるのか? 適正な会社の規模の模索と共に二つの大きな課題だと思われます。

 けん・あおき/日系アパレルメーカーの米国代表を経て、トム・ジェームス.カンパニーでカスタムテーラーのかたわら、紳士服に関するコラムを執筆。1959年生まれ。

飯塚国雄さん死去

NY日本人美術家協会会長

 ニューヨーク日本人美術家協会(JAANY)会長で創設者でもあるアーティストの飯塚国雄さんが14日、入院先のマウント・サイナイ・ウエスト(旧ルーズベルト)病院で亡くなった。81歳だった。4月初旬に新型コロナウイルスに感染して入院、約1か月間の治療を経て退院、リハビリセンターに移ったが、その後後遺症や心臓の病気で再入院、数日前より心臓疾患が悪化していた。

 飯塚さんは1939年東京生まれ。逗子開成高校、お茶の水美術学院卒業後61年渡米。その後永住権を取得し、ニューヨークの「アート・スチューデント・リーグ」彫刻スクールで教鞭を執った。73年ニューヨーク日本人美術家協会を創立し、初代会長となる。

 医師だった母親の愛を注がれて母子で育ち、渡米前の結婚後に探し充てたまだ見ぬ父親が被爆者であったことを知り、反核がアート活動の根源となった。95年ニューヨークの国連本部で反核個展「われわれはどこへ向うのか」展を開催。その重いテーマ性から社会派作家とも称されるが、恋人や愛をテーマにした作品も多く残しており、すべてが人間主義に貫かれていた。98年に紺綬褒章を受賞。

(写真)Mother and Child of FUKUSHIMA
acrylic on canvas, 28 x 18”, 2014