「今こそ美術館に行こう」 

画家 千住 博

 私がニューヨークで生活を始めたのは1990年代だった。その頃はインターネットは全く普及していなかった。ホームページもなかったしユーチューブもない。そんな環境のなか、日本で海外の美術雑誌を待っていると、2か月遅れて洋書店に入る。これが世界の最新か、と頭に刻み込んでいる時には、すでに新しい動きや見たこともない新人が出ている。だから、新しい芸術を学びたい者は情報の中心地に自ら来るしかなかった。

 一昔前なら、それはパリだったろう。その当時は旅客機がないのだから一層大変だった。黒田清輝がパリで最新の「印象派」という美術運動に感化され、日本に船で大急ぎ帰って、藤田嗣治に教え、藤田がまたまた大急ぎで船でパリに渡った時、印象派は終わっていた。藤田が、黒田から指定された印象派向きの色彩豊かな絵の具の入った箱を床に叩き捨てて、そこからが自分の画業の始まりだった、といったのは有名な話だ。

 舞台はパリからニューヨークに移った。

 しかしコロナ禍で急速に変化が訪れた。ニューヨークのような都市は密の究極、と人々は知ることになる。

 そして都市なるものの本質、すなわち情報のやりとりは、急速にネットの中に移行する運命となる。

 だがAIやデジタルは計算速度を増した情報処理以外の何ものでもない。そしてパソコン画面に映し出される視覚とスピーカーからの聴覚だけでは人は生きていけない。人間の五感に対応できないからだ。従って、これから人はますます触覚的な体験価値を軸に文化を展開することになると思う。

 御存知の方も多いだろうが、ニューヨークには数多の美術館がある。東京都の2つの区くらいの区域に、メトロポリタン美術館を筆頭に、考えられないくらい優れたコレクションの美術館がひしめき合っている。これが私がニューヨークから離れられない最大の理由でもある。例えばフェルメールがニューヨークに何作あるだろうか。世界に30作弱しか現存しないといわれるなか、ニューヨークの美術館には8作が展示されている。日本に数作集まるだけで長蛇の列となるのはご存知のとおり。これはフェルメールだけの話ではない。

 3Dプリンターで表せない質感、アルゴリズムではじき出せない意外性、即興性、試行錯誤の痕跡、これらが人間のつくり出した芸術の本質だ。疫病や戦争などの不安感のなかで自らの命と同等の価値を認め、人々が必死に守り継いできたそれらの絵画、彫刻、工芸がこの地の美術館には数多く存在しているのだ。

 優れた芸術作品は、それぞれの時代背景のなか、世の中には何が足りなくて何が歪んでいたのかを指摘し、それを描いてきた。人類史上最悪といわれる疫病の後に科学の必然を告げたのがレオナルド・ダ・ビンチだったし、健康感の大切さを説いたのがミケランジェロだった。そして第一次大戦の暗い時代に、モネは日常に降り注ぐあふれる光を描き、ルノアールは暖かさに満ちた無垢の人々を描いた。

 先人たちが伝えてきた美術品の数々は、コロナ禍に苦しむ今日、私たちはどこから来たか、私たちは何者か、そして私たちはどこに行くのか、という人生の命題を教えてくれているに違いない。もし許せる状況にあれば、十分に注意を払って、年末年始にニューヨークの美術館を訪ねてみるのはどうだろう。

2021年こそは始めたい旅のニューノーマル

定番となりつつある新たな旅行スタイルで行く、2021年最新おすすめ旅行

 2020年はどんな一年でしたでしょうか。日本行きを予定していた方、バケーションを楽しみにしていた方など、想定外の状況に戸惑った方も多いのではないでしょうか。しばらく旅行は諦めようかな…そんな方に、1988年創業の旅行会社アムネットが2021年の最新おすすめ旅行情報をお届けします。ウィズコロナの新たな旅行スタイルで、旅のニューノーマルを始めてみませんか?

アメリカ国内人気No.1の定番リゾート「ハワイ」

 日本人にファンも多いハワイ。ニューヨークからは直行便で片道約11時間20分、アロハ(愛)に包まれたハワイの個性豊かな6つの島々には、有名な名所から穴場まで観光スポットが満載です。年末年始に芸能人が訪れることで有名ですが、実は5月中旬〜7月中旬の乾季が気候も過ごしやすく、安く渡航できる場合もありベストシーズンです。

 現在ハワイへ渡航する場合、出発前にハワイ州の「Safe Travels Program」への登録・申請が義務付けられています。到着時に空港でQRコードの提示を求められますので、事前にご準備ください。ハワイ到着後の14日間自己隔離の免除には、以下の条件に沿ったハワイ州保健局が指定する陰性証明書を到着時に提示する必要があります。※指定外の陰性証明書の場合は免除対象外

 ・出発前72時間以内に検査を受診

・ハワイ州保健局認定の医療機関で、アメリカ食品医薬局(FDA)承認のPCR検査を含む核酸増幅検査(NAAT)を行い、指定の陰性証明書を発行

世界で最もオーロラを見やすい地「アラスカ」

 一生に一度は見てみたいオーロラ、アメリカ国内でも鑑賞することができるのをご存知ですか?特にアラスカ州の中心に位置するフェアバンクスはオーロラで有名な町で、観測に適した場所になります。

 アラスカでのおすすめの過ごし方は2つ。まず、オーロラ観測が一番の目的の方には「郊外滞在型」。光が少ない郊外のロッジに滞在して、日中はのんびり、夜中はオーロラの出現を待つというプランです。フェアバンクス郊外には温泉リゾート「チナ温泉」もあり、雪上車や犬ぞりなどのアクティビティーに参加することもできます。もう一つはオーロラの他に市内観光も楽しみたい方には「市内滞在型」。日中は市内をエンジョイ、夜は郊外でオーロラを観測する贅沢なプランです。

 現在アラスカは米国内では感染者数が最も少ない州の一つで、州外からアラスカへの旅行は一定の規制の下に許可されています。以下の条件を満たせばアラスカ到着後に14日間の自己隔離もありません。(到着までに検査結果を受け取れなかった場合、結果がEメールで届くまでは自己隔離)

・アラスカへ出発前にオンラインのドキュメントに記入して送付

・出発前72時間以内に行われたPCR検査の陰性証明書(通常はEメール)を提示

アメリカの冬を飛び出して南国リゾートの本場「カンクン」へ

 海外旅行に行くには難しい状況が続く中、カリブ海リゾート「カンクン」の人気は衰えることを知りません。人気のオールインクルーシブプランなら、食事やアルコール、アクティビティーなどの費用がコミコミで、お財布いらずで過ごすこともできます。

 カリブ海旅行が初めて場合、ホテルは「ホテルゾーン内」でお選びください。家族向けホテルからハネムーン旅行やカップルに人気のラグジュアリーな大人専用ホテルまで、ニーズに合ったホテルを選ぶことができます。ハイクラスな旅を楽しみたい方には、世界中から多くのゴルファーも訪れる「リビエラ・マヤ」。透明度抜群の泉「グランセノーテ」やマヤの都市「トゥルム」、テーマパークなど観光名所が多数あり、滞在中の移動時間を抑えることもできます。

 ビーチやホテル以外にも、カンクンの魅力と言えば世界遺産巡りや本場メキシコ料理。代表的な「チチェン・イツァ遺跡」はカンクンから車で約2時間半、日帰りで観光することもできます。3月には年に2回しかない「ククルカンの降臨」も見ることできます。

 ニューヨークからは直行便で片道約4時間。渡航の際は機内で問診票への記入、カンクン空港での検温のみで、PCR検査はなく簡単に入国することができます。また、ホテルのほとんどは営業を再開しており、衛生面の徹底も図られていて安心です。

 近郊旅行から海外旅行まで、これからの旅行の楽しみ方はあなた次第。2021年は旅のニューノーマルを体験してみませんか? アムネットは安全に楽しく旅行ができる未来を目指し、旅行者の皆さまと旅に携わる皆さまを応援し続けます。2021年も変わらぬご愛顧のほどよろしくお願い申し上げます。

※記事作成時の情報となりますので、最新情報は各公式機関にてご確認ください。※現在地域により移動制限等が発表されておりますので、各州の最新情報や現地大使館・総領事館からの安全情報をご確認ください。

旅行会社 アムネット バケーション/テーマパークデスクamnet-usa.com

もぐり酒場の客

常盤新平 ニューヨーカー三昧 I LOVE NEW YORKER 7

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 「ニューヨークには何年住まれましたか」と訊かれるたびに、もう赤面はしなくなったが、気恥ずかしくなる。ニューヨークに住んだことはなく、この都市についての知識はみな新聞や雑誌から拾ってきた。

 何ごとも読めばわかると信じていた時期が長く続いた。活字が好きだったからであるが、旅をするようになって、ものごとは自分の目で確かめなければならないと悟った。

 ただ、活字のおかげで、私が生まれる前の1920年代を知ることができた。その一つがグリニッチ・ヴィレッジにあったモリアーティという酒場である。

 禁酒法が酒類の販売や飲酒を取り締まっていた20年代にはスピークイージーといわれる「もぐり酒場」が市内のいたるところで営業していた。

 酒を禁じることにそもそも無理があった。1910年代からとくに禁酒運動が盛んになってきて、第一次大戦後の1919年に憲法によって禁酒法という悪法というか、ザル法というか、世にも不思議な法律が施行された。

 ヴィレッジにはフランスの家庭料理を安く食べさせるもぐり酒場が何軒もあって、その一軒、マドモアゼルプティパという酒場は、2階が下宿屋になっていた。変わった店で、客は二つのタイプに分かれていた。

 一つはこの界隈に住むアイルランド系で、近所のアパートメント・ハウスのドアマンや三番街の百貨店の守衛や分署の警部補など。ヴィレッジにはアイルランド移民が多く住んでいた。もう一つのタイプはダン・モリアーティの言う、ジェントルマンの紳士がなまったジントルミンだ。ウォール街の重役やニューヨーク・ヨットクラブの理事、それにエール、プリンストン両大学の金持ちの学生たちだった。

 同じ酒でも値段が違っていた。アイルランド人は一杯五十セント。ジントルミンは一ドル五十セント。もぐり酒場だから頑丈な鉄製の扉には覗き穴があって、やってきた客が常連かどうかをこの穴から確かめた。

 階段をおりた地下室がアーク灯輝く酒場だった。カウンターには十二の腰掛があり、テーブルが三つか四つある。そこにすわるのは酔っ払った客以外にはほとんどいなかった。

 店はモリアーティの三兄弟がやっていた。イーストサイドに住むアイルランドの二世で、民主党びいき。常連もアイルランド系で占められていたから、店もいわばアイリッシュ・パブだった。

 三兄弟の長男のダンは口ひげを生やして、陽気で気前がいい。二男は陰気でとっつきにくく、末弟のジムはボクサーくずれのうぬぼれ屋。禁酒法が廃止になると(1933年)、独立してマディソン・アベニューに自分の店を持ったが、精神病院で死んだ。

 当時のバーテンダーを務めるオールド・ジョーという老人がいて、毎朝店を開けていた。彼は週刊誌「ニューヨーカー」を創刊したハロルド・ロスについて語っている。

 「あのロスって人はゆうべここに来て、ひとことも口をきかないで、バーボンを十杯も飲んだ。文学関係の人はなぜああなのかね。人づきあいが悪い。とにかく新しい入れ歯を試してみるとよかったんだよ。私は自分の入れ歯を貸してやろうとしたんだが、あの人は断った」

 モリアーティの閉店は午前二時、そのころになると、帰りたくない客は声をそろえて「ハウス・ウルフ、ハウス・ウルフ」と叫ぶ。帰る前に店のおごりで一杯飲ましてくれという合図だ。ハウス・ウルフは当時最も人気のあったゴードンのジンのラベルに関係があるという。恐ろしい牙をむいた狼の画がこのジンのラベルだった。

 客の一人にジャック・トーマスという作家がいた。20年代のはじめに『ドライ・マティーニ』という小説を書いて、これがベストセラーになった。

 高級ホテルのバーを舞台にした長編で、のちに映画化されて、作者は名声と富を得たが、富のほうは酒と女につかいはたしてしまった。モリアーティの酒場もヴィレッジの歴史のささやかな名物の一つだ。

(写真)かつてディラン・トーマスなどの作家が訪れた1880年創業の老舗バー、ホワイトホース・タバーン(11丁目ハドソン街、撮影・島津貴幸)


常盤新平(ときわしんぺい、1931年〜2013年)=作家、翻訳家。岩手県水沢市(現・奥州市)生まれ。早稲田大学文学部英文科卒。同大学院修了。早川書房に入社し、『ハヤカワ・ミステリ・マガジン』の編集長を経てフリーの文筆生活に入る。86年に初の自伝的小説『遠いアメリカ』で第96回直木賞受賞。本紙「週刊NY生活」に2007年から2010年まで約3年余りコラム「ニューヨーカー三昧」に24作品を書き下ろし連載。13年『私の「ニューヨーカー」グラフィティ』(幻戯書房)に収録。本紙ではその中から12作品を復刻連載します。

クイックUSAアメリカの人事部(29)

企業が提供している祝日とその割合

 今年は例年とは異なる「良い」祝日を過ごした方も多かったのではないだろうか。安全で健康を心がけて何も無いことが「良い」ことと感じられる2020年のホリデーシーズンではないだろうか。

 また、今年は特に在宅勤務が導入された企業も多く、何かと祝日感に浸ることが難しかった1年であったのではないだろうか。

 2019年に22日の祝日・振替休日が提供されていた日本と比較すると、米国での祝日・振替休日の日数は10-12日ほど少ない10-12日間が平均とされている。そのうち6日間が90%以上の企業で提供されている祝日であり、残りは各企業によって異なる。

 また業種や企業の所在地によっても提供される祝日が異なるのは米国の特色ではないだろうか。

 今回は、多く提供される祝日と提供されている割合を取り上げたいと思う。

大多数の企業が祝日と制定する日:

New Year’s Day (1月1日)約90%の企業が提供
Memorial Day(5月の最終月曜日)約90%の企業が提供
Independence Day(7月4日)約92%の企業が提供
Labor Day(9月の第一月曜日)約91%の企業が提供
Thanksgiving Day(11月の第4木曜日)約97%の企業が提供
Christmas Day(12月25日)約97%の企業が提供

その他の祝日:

Marin Luther King, Jr’s Day (1月の第3月曜日)約32%の企業が提供
President’s Day(2月の第3月曜日)約24%の企業が提供
Good Friday(イースターの金曜日)約21%の企業が提供
Columbus Day(10月の第2月曜日)約14%の企業が提供
Veteran’s Day(11月11日)約19%の企業が提供
The Day After Thanksgiving (11月の第4金曜日)約43%の企業が提供
Christmas Eve(12月24日)約28%の企業が提供
New Year’s Eve(12月31日)約15%の企業が提供

 上記のような日が指定される祝日に加え、「Floating Holiday」という祝日を設けている企業も多数ある。Floating Holidayとは有給休暇のように、従業員が自身で休む日を決定して取得をすることが出来る祝日である。

 ただし有給休暇のように使用が可能という点から、カリフォルニア州ではFloating Holidayを消失をさせることが違法とみなされる場合もあり、提供方法等を考慮する必要がある。

(榊原将 HR Linqs, Inc. President)

www.919usa.com

海を渡った日本人、歴史を開封

見つかった1枚の写真
松方幸次郎の青春

 1988年にラトガース大は松方幸次郎就学100年記念行事を行ったが、その年の春に大学図書館資料室から当時の松方の学生時代の生活ぶりを偲ばせる一枚の写真が見つかっている。フットボールチームの一員として1889年卒業組のユニフォームに納まった弱冠20歳の幸次郎青年。その瞳には、日本の近代化と共に歩み出す彼の大志がしっかりと刻み込まれているように見える。

 今から150年以上も前になぜ、この大学にこぞって日本人留学生が集中したのか。その問いに答える学術的研究はなされていないが、明治以前から長崎にいた米国人宣教師で、英語教師もしていたオランダ修正派教会から派遣されていたフルベツキの手引きがあったからという推測ができる。1853年のペリー提督の来港以来、幕府の日本人海外渡航禁止令は有名無実となり、大志を抱いた若者が続々と西欧文化の取得に海を渡った。幕府自身も1862年ごろからオランダ、イギリス、フランス、ロシアに留学生を送り出している。新島譲は1864年に函館から単身渡米し、マサチューセッツ州アムハースト大に入学、その前年には長州藩が伊藤博文、井上馨らをイギリスに送り出し、薩摩は65年に森有礼ら15人を船出させている。

 そのような時代に来日した60人を超えるラトガース大卒業生の「お雇い外国人」教師や宣教師たちが日本の近代化に果たした役割は、欧米の他の大学に比して劣らぬものであったと言えよう。   (三浦良一記者)

帰国後、日本の礎に
NJ州ラトガース大学

日下部太郎永眠す

 ラトガース大学は、オランダ修正教会を母体とする学校を前身として1866年に創立された州立大学。ストレプトマイシンを発見したS・A・ワックスマンを輩出するなど、化学、農学、科学技術分野に突出した業績を持つニュージャージー州最大の総合大学だ。この大学がある町、ニューブランズウイックに近代日本の黎明(れいめい)期にあたる慶応3年から明治30年までの30年あまりの間に、300人近くもの日本人留学生が学んだことを知る者は多くない。

 当時この大学に学んだ日本人留学生の多くは、幕末の壮士、政治家、知識人とその子息たちで、帰国後、科学技術、政治、教育、ビジネスの分野で日本の近代化に大きな足跡を残している。また、同時期にラトガース大学卒業生で日本へ行った「お雇い外国人」教師や宣教師も60人に上る。日本人留学生を相次いで受け入れた最初の米大学。ラトガースの創世期をつづる歴史の1ページを開くと、そこに日米関係の原点が鮮明によみがえる。

 慶応3年(1867年)にラトガース大学に入学した日本人最初の官費留学生、日下部太郎=写真右=のパスポート番号は第4号。日本からの正式な海外渡航者の4人目、当時の奨学金として年間600ドルが支給された。当時の同大学の年間学費は45ドルから60ドルだった。

 越前福井藩士の日下部は、同大を3年間でしかも首席で終えたが、卒業の1か月前に結核のため、この地で死んだ。享年26歳の若さだった。しかし成績が優秀だったため、正式に卒業が認められ、米国最高の学称ファイ・ベータ・カッパの称号と金のカギを受けている。

 大学キャンパスから学生街を抜けた一角の共同墓地、ウイローブ墓地の片隅に、日下部ら日本人留学生の墓がある。並ぶ7本の墓石に、長谷川鍛郎(23)、小幡茶三郎(29)、阪谷達郎、川崎新二郎(21)、入江音次郎、松方蘇介(22)の名がいずれもかすかに読み取れる。松方蘇介は、後の1884年に渡米して同大に学び、帰国後初代川崎造船社長となる松方幸次郎の実兄でもある。


 日下部太郎と共に眠る日本人留学生たち(大学キャンパス近くの共同墓地で)

 同大図書館に保存されている1958年1月11日付の地元紙、ザ・デイリー・ホーム・ニューズが「明治初期の日本人留学生の墓が23年間も倒れたまま、荒地に放置されている」と報じるまで、在米邦人はこの墓の存在を知らなかった。この記事を読んだニューヨーク日系人会(JAA)の代表が、当時のポール市長にかけあい、修復工事を依頼、市長は、ヘルスケア大手のジョンソン&ジョンソンのジョージ・スミス社長に修復のための工事費、200ドルを懇願、墓石修復を行ったという。しかし1977年にこれらの墓石が再び将棋倒しのように倒れ、日下部の故郷、福井市の市長が来米して修復、現在に至っている。

 同大に学んだ日本人留学生には、1872年に特命全権大使として来米した岩倉具視の子息3人もおり、帰国後、宮内庁や外務省の要職に就いたほか、岩倉の通訳として来米し、帰国後も政府の要職を歴任した畠山茂成や、県知事や東京大学の前身、東京開成学校予備門長を歴任した服部一三、大蔵書記官となった吉田清成、川崎造船の初代社長で日本の実業界のリーダーとなり、膨大な美術収集・松方コレクションで知られる松方幸次郎らがいる。

 さらに明治維新の立役者の一人、勝海舟の子息、勝小鹿もここに学び、その小鹿の従者として渡米した富田鉄之助と高木三郎もともに同大に在籍、明治5年にできたニューヨーク領事館の副領事と領事を務めている。富田は留学生のまま副領事を4年間務め、帰国後の明治21年から1年間、二代目の日銀総裁に就いている。高木は、初代のニューヨーク総領事となり、離官後ニューヨークにそのまま留まる。製糸の輸入業を営み、日米貿易の先駆者として活躍した。

 日下部太郎らの墓と共に「1877年没、タカギ・サブロウ・スマ夫妻の幼女」と記された小さな墓は、この高木の亡くなった幼女の墓で、外地で娘を一人にせず、せめてともに志を同じくした同胞とともに眠らせようと、高木三郎夫妻がこの地に埋葬したのだと大学関係者が説明してくれた。

(写真)松方幸次郎の部活  1889年卒業組のフットボール・ユニフォームに身を包んだ弱冠20歳の松方幸次郎(前列右から2人目)。子供の頃、木から落ちて足が不自由だった松方が入部したのはフットボール部。「生きた英語を学ぶにはフットボールが一番と考えたのかもしれません」と写真を発見した図書館のミーチさんは話す。(大学図書館所蔵写真)

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NYに日本歴史博物館、19世紀以降の記録公開

評議会設立

 19世紀以来のニューヨークにおける日本コミュニティの発展を振り返り、歴史的価値のある資料を収集、保存し、世界に向けて発信すると共に、将来の世代に語り継いでいくための「ニューヨーク日本歴史評議会」が11日、ニューヨーク総領事の山野内勘二大使の呼びかけで設立された。まずデジタル・アーカイブを設立し、将来的には「ニューヨーク日本歴史博物館」を設立することを目的にしている。評議会の発起人として日系社会各界から選ばれた15人が同日、総領事館で設立文書に署名した。

 2020年は日本初の公式米国訪問団となった徳川幕府外国奉行新見豊前守率いる万延元年遣米使節が1860年6月にニューヨークを訪問してから160年となる記念すべき年だ。その使節団訪米が日本とニューヨーク、ひいては日米関係の嚆矢となった。ニューヨークには1872(明治5)年3月2日、日本政府が富田鉄之助を領事心得に任命し、在米公館第1号となるニューヨーク日本総領事館が設置されている。日系移民が多かった西海岸には全米日系人博物館(ロサンゼルス)があるが、東海岸には1か所にまとまった形で資料を保管、一般公開展示している場所がない。東海岸には津田塾大を創設した津田梅子やラトガース大学に留学して川崎造船初代社長となった松方幸次郎ら、米国から帰国後、日本の近代化の夜明けに大きく貢献した日本人、野口英世や日本クラブ、ジャパン・ソサエティー創設に寄与した化学者で実業家の高峰譲吉ら当地で業績を残した偉人も少なくない。

 数多くの日本人がニューヨークの地を踏み、数えきれない個人が公務、ビジネス、文化など多様な分野で活躍した。また、米国国籍を得て、日系米国人として生き、日米の架け橋となった多くの人々がいる。さらに多くの日本企業がニューヨークに古くから拠点を設立して世界との交易に従事し、経済関係を強化して日米関係の発展に寄与しているのもニューヨークの特徴だ。そして日米関係の深化に大きく貢献した多数の米国人がいる。一方で、そういったニューヨークで活躍して功績をあげ、後世に名を残した人物もいれば、歳月を経て現在では広く知られていない人や見果てぬ夢と共に去っていった日本人もいる。有名、無名を問わず、それぞれの人生があり歴史がある。

 新型コロナウイルスでパンデミックとなった2020年は、散逸してばらばらになっているニューヨークにおける近代日本人の足跡をまとめて後世に伝える「NY近郊日本人史開封元年」の年ともなりそうだ。

日米交流の原点探る
まずデジタルアーカイブ

 ニューヨークでこのほどニューヨーク日本総領事館の発案で設立されたニューヨーク歴史評議会の目的は、ニューヨーク周辺地域での日本コミュニティの歴史を取集、保存、公開及び発信し、将来の世代に語り継いでいくことを目的としている。

 組織事務局は日本クラブが務める。 事務局は各事業の実施に関わる作業を担当・調整する。事務局には事務局長を置く。ニューヨーク日本総領事館が事務局の活動を支援する。活動は非営利。

 事業内容は、(1)デジタル・アーカイブの設立と(2)発信、(3)将来的にNY日本歴史博物館を設立を目指すことの3本柱。

 デジタルアーカイブは1860年代以降現在までの日本コミュニティの活動を保存し、それを周知するためのプラットフォームとして専用のウェブサイトを新規に設置する。デジタルアーカイブには、年代、分野(政治、外交、経済、医療、文化、教育、学術、芸術、音楽、日本食など)、地域に分類され、検索機能を設け、インタビューなどによるオーラルヒストリーも含む。

 集約された情報を世界各地の一般市民に対してさまざまな機会を活用して積極的に発信する。

 将来的にニューヨークに「ニューヨーク日本歴史博物館」を設立し、一般市民に公開する。散逸された日本コミュニティーの歴史的物品を収集のうえ、分類、保存を行い、将来的な展示を目指す。

発起人は15人
日本クラブに事務局設置

 発起人は次の通り。山野内勘二大使(ニューヨーク総領事)、秋吉敏子さん(作曲家・ピアニスト)、キャロル・グラックさん(コロンビア大学教授)、ダニエル・イノウエさん(ニューヨーク大学客員教授)、前田正明さん(日本クラブ事務局長)、古本武司さん(退役軍人)、本間俊一さん(コロンビア大学教授、JAMSNET代表)、河野憲治さん(NHKアメリカ総局長)、村瀬悟さん(弁護士)、岡本徹さん(ニューヨーク育英学園学園長・理事長)、高岡英則さん(北米三菱商事会社社長)、ボン八木さん(ニューヨーク日本食レストラン協会会長)、スーザン大沼さん(ニューヨーク日系人会会長)、ジョシュア・ウォーカーさん(ジャパン・ソサエティー理事長)、柳澤ロバート貴裕さん(米国日本人医師会会長)。

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160年前に大歓迎

日本の侍70人が大パレード
ブロードウエー人で埋まる

 万延元年遣米使節団は、幕末の幕臣・外国奉行の新見豊前守正興(しんみぶぜんのかみまさおき、40歳)=写真中央=を正使に、副使の同じく外国奉行の村垣淡路守範正(むらがきあわじのかみのりまさ、48歳)=同左=と小栗豊後守忠順(おぐりぶんごのかみただまさ、32歳)=同右=を筆頭に約80人の侍が米国海軍の蒸気船ポーハタン号に乗り、1860年1月に品川沖を出発した。3月8日にサンフランシスコに到着し大歓迎を受けた。サンフランシスコに9日間滞在した後、船でパナマとキューバを経由してワシントンDCに向かった。ワシントンでは3月28日に第15代大統領のブキャナン大統領に公式に謁見している。一行はワシントンDCに3週間滞在し、6月16日にニューヨークに到着。NYでは街を上げての大歓迎を受けた。ブロードウエーでは正装した侍たちが練り歩く「侍パレード」が行われた。1860年6月19日付ニューヨーク・トリビューン紙には、ニューヨークに来た70人の侍のフルネームが掲載され、それぞれの役目と人物像が紹介されている。

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日本酒でうま味を体験

JFOODO

ポップアップレストラン

SEA FOOD!

 ジェトロの食品販路促進を目的に活動するJFOODOのポップアップレストランが、8日から13日までハドソンヤードで一般向けに開催された。SNSメッセージにて届くコードを使ってフードロッカーをアンロックして(味覚をアンロックする#UnlockYourPalateがキーワードのキャンペーン)、シーフード料理満載の弁当と日本酒のスモールボトルのペアリングを楽しむ企画。参加者は、自宅に弁当を持ち帰り、別途配達された日本酒とシーフードの旨味相乗効果(Unami Synergy)を楽しんだ。日本酒にはQRコード付きのタグがついていて、読みとるとバーチャル蔵ツアーの映像も楽しめた。国際的に知名度のある北欧レストラン、アクアビットのシェフのヨハン・スヴエンソン氏の手による海鮮フードは、日本酒を口に含む、料理にかける、などの食べ方でうまみ効果が格段に高まることを意識した内容。

 日本酒の対米進出で、レストランのテーブルで手軽にサーブできるスモールボトルの市場普及を狙っている。当日参加したのは南部美人、明石鯛、楯野川、菊水、月桂冠の日本の5つの蔵元。

(写真) 参加者は各自、自宅やオフィスに弁当を持ち帰って日本酒とのペアリングを楽しんだ。

邦銀大手3行が奨学金

NYとNJ補習授業校在籍園児児童生徒対象

昨年より3倍近い給付が可能に

 ニューヨーク日本人教育審議会(JEI)は、2021年度から従来の三井住友銀行に加え、新たに三菱UFJ銀行及びみずほ銀行から、ニューヨーク補習授業校(片山隆校長)とニュージャージー補習授業校(久我正次郎)の2校に通う園児児童生徒を対象とした奨学金制度の申し出を受けた。これにより21年度は従来の3倍近い20人程度への給付が可能となった。審議会は週内にも奨学生の募集を開始する。

 対象は両補習授業校在籍者で、日本語・日本文化等を学ぶ意欲のある園児児童生徒。昨年度受給の園児児童生徒も応募可。授業料の3分の1を支給する。審議会の新家良一会長(三菱UFJ銀行)は「コロナ禍で経済的困難を理由に退学や休学する家庭が増えている中、奨学金の増額は大変ありがたいこと。過去に受給し、グローバルな場で活躍している卒業生がたくさんいるが、さらに増えることを期待している」と話す。

 申込み必要書類=奨学金申込書、世帯全体の所得申告証明(Tax Return Form-1040 Page1~2 のコピー)、現地校成績表のコピー、作文(幼児部については簡単な文や絵、作品など)。

 補習授業校が指定する作文用紙を使用すること。作文の課題は自由。例えば「私にとっての補習校」、「私と日本語」など。絵や作品の場合は写真を送付。応募締め切りは1月19日(火)午後5時。Eメール必着。選考基準は、奨学金の経済的必要性、日本語/日本文化習得に関する意欲・補習授業校及び現地校における学業成績、作文、作品、児童生徒のボランティア活動等。書類送付先 [email protected]。選考結果については、給付者のみ1月末日までに審議会事務局より直接連絡する。

 応募の問合せはEメール[email protected] 審議会事務局まで。

店内飲食を禁止

レストラン業界に打撃

 クオモNY知事は11日、前日時点での陽性率が4・98%(21万2672件中1万595件)、入院者総数が5321人、死者数が87人となったと発表した。感染者ひとりあたりが何人に感染させるかを示す「実効再生産数」も1・3と増加し、NY市の入院者数の増加を受けて14日から市内レストランなどの店内飲食を禁止すると発表。屋外飲食とテイクアウト、デリバリーはこれまで通り許可される。米疾病対策センター(CDC)のガイダンスによると、店内飲食は「特に感染リスクが高い」とされている。再開時期については、14日以降の2週間で感染者数と入院者数をモニターしたうえで判断するとした。ジムや美容サロンについては、必要な措置をとることで引き続きオープンできる。

 店内飲食が再び禁止されたことを受け、ニューヨーク州レストラン協会のCEOメリッサ・フライシュット氏は「飲食店には選択の余地がなく、このホリデーシーズンに何千人もの従業員が解雇されるだろう」と述べ、今後もさらに倒産が増加すると警告した。

 また、クオモ知事は会見でクラスターのゾーンを次の通り再定義した。

・レッドゾーン:経済社会活動を制限したNY PAUSEの再開。今後21日以内に病院の収容率が90%以上となる地域

・オレンジゾーン:感染率が直近10日間で4%、かつ病院の収容率が80%以上となった地域

・イエローゾーン:感染率が直近10日間で3%、かつ病院の収容率がクラスターの中でもワースト10%となった地域詳細は州の公式サイトwww.governor.ny.gov/を参照。

(写真)NYは14日から店外だけの飲食になった(48丁目で)