ラトガースは全米でも最も早く日本人留学生を受け入れた大学の一つで、1867年に福井藩士の日下部太郎がラトガース大の外国人留学生第一号として入学しました。日下部は残念ながら、卒業間際の1870年にニューブランズウィックで結核のため亡くなりましたが、同じ年に彼の先輩であり友人でもあったウイリアム・E・グリフィス(William E. Griffis)が福井に招かれ、3年半の日本滞在中、福井と現在の東京大学の前身である大学南校・開成学校で教鞭を取りました。また帰国後は『Mikado’s Empire 』を初め多くの論文や本を書き、アメリカの人々に日本を紹介しました。1870年代のラトガースは、日本人留学生を多く受け入れており、留学生の中には岩倉具視や勝海舟の子息、開成学校初代校長の畠山義成、元海援隊士の白峰駿馬などが名を連ねていました。また、1872年の岩倉使節団訪米の際にはラトガース大学教授のダビッド・モルレー (David Murray)の学監としての招聘が決まり、モルレーは1873年から78年まで文部省の顧問として日本の教育の近代化に大きく貢献しました。2020年がちょうど1870年から150年の節目となることからラトガース大学では、日本との友好関係を記念したシンポジウムを企画いたしました。アメリカ・カナダ・日本の大学から専門家をお招きし、19世紀後半におけるラトガースと日本との交流をお雇い外国人、日本人留学生、宣教師の三つの視点からお話いただきます。
日本では知名度の低いラトガース大学といたしましては、この機会に当大学が日本の近代化に果たした役割をより多くの方達に知っていただきたいと思っています。また、ラトガース大学にはウイリアム・E・グリフィス・コレクション(William E. Griffis Collection)や付属のツィンメリー美術館(Zimmerli Art Museum)に多くの幕末・明治期の貴重な資料があることも、この学会を機に知っていただき、多くの研究者に活用していただきたいと考えています。
今から150年以上も前になぜ、ラトガース大学にこぞって日本人留学生が集中したのか。その数は300人余りに上る。その問いに答える学術的研究はなされていないが、明治以前から長崎にいた米国人宣教師で、英語教師もしていたオランダ修正派教会から派遣されていたフルベツキの手引きがあったからという説がある。1853年のペリー提督の来港以来、幕府の日本人海外渡航禁止令は有名無実となり、大志を抱いた若者が続々と西欧文化の取得に海を渡った。幕府自身も1862年ごろからオランダ、イギリス、フランス、ロシアに留学生を送り出している。新島譲は1864年に函館から単身渡米し、マサチューセッツ州アムハースト大に入学、その前年には長州藩が伊藤博文、井上馨らをイギリスに送り出し、薩摩は65年に森有礼ら15人を船出させている。同大のウイリアム・E・グリフィス(William E. Griffis)が福井に招かれ、3年半の日本滞在中、福井と現在の東京大学の前身である大学南校・開成学校で教鞭を取っている。