長嶋茂雄氏が監督を辞められなかった理由

 日本の野球史上最高の選手の一人、長嶋茂雄氏が亡くなった。病魔と戦いながらの晩年であったが、享年89歳というのは大往生だと思う。謹んで御冥福をお祈りしたい。日本の新聞やTVは訃報とともに、一気に追悼報道一色となった。けれども、現在の各社の報道デスクは世代的に長嶋氏の現役時代を知らない中では、報道は国民栄誉賞とか松井秀喜氏との主従関係など、近年のエピソードが主となっていた。

 長嶋氏の活躍に魅せられて野球というスポーツに親しみ、その引退に一時代の終わりを感じた世代としては寂しい思いもするが、これも時の流れの冷酷ということであろう。けれども、どう考えても長嶋茂雄という野球人の棺を覆うには、監督であった15シーズンよりも現役選手であった17シーズンを語る必要がある。

 まず現役の期間だが、17シーズン中リーグ優勝13回、日本一11回という驚異的な数字である。勿論、これは水原茂、川上哲治という監督とチーム全員の成果でもあるが、ほぼ全試合に出場して通算打席が9201、安打2471もさることながら、打点1522はシーズン130試合制(など)で明らかに投高打低の中では極めて優秀だ。何よりも、チャンスに強く、特に優勝のかかった重要な局面での勝負強さはファンを魅了したものだ。

 一方で監督時代は、15シーズンでリーグ優勝5回、日本一2回となっている。その15年間は、様々なドラマの連続であって、ファンを飽きさせないものではあったし、何よりも日本プロ野球がどんどんレベルアップする群雄割拠の中では健闘したとも言える。けれども、独特のサービス精神も加わっての、不思議な造語「メークドラマ」などのユニークな和製英語スローガンから、「いわゆる一つの・・・」などのことば遣い、「バアーッと行こう」などの勢いを込めたオノマトペなど、不思議な「長嶋語」が話題になるなど、チームの勝敗とは別のところでの芸能人的な扱いを受けたことも多かった。

 それでも、第一次政権で6年、第二次政権で9年も監督を努めたのは立派であったと同時に、ご本人にはかなりの負荷であったと思われる。第二次政権から退任した2001年には既に65歳であったが、すぐに五輪日本代表監督に指名された。そのアテネ五輪の直前の2004年3月には脳梗塞で倒れたのだから、やはり監督業から来るストレスが大きな負荷になっていたものと思われる。

 では、どうして長嶋氏は監督を続けさせられたのであろうか。2つ大きな理由がある。1つは、その人気が興行的にどうしても必要だったという点だ。名選手は必ずしも名監督とはならないにしても、日本球界では、元名選手は観客や視聴率を引っ張ってくるのは間違いないとされていた。この傾向は今でもある。選手としての実績はなくても、能力に優れた良い管理者を置けばゲームには勝てるし、チームの人気もでるはずだが、経営者としてはそんな「悠長な」判断はできないというのである。名将が結果を出す保証はないが、人気者を監督にすれば集客は保証される、そのような経営が横行していたのである。

 2つ目は、選手たちが悪い意味で「猛者」であり、現役時代に自分ほど活躍していなかった人が監督になっても、バカにして言うことを聞かないというカルチャーがあった。その点で、長嶋茂雄、王貞治、金田正一といった人が監督になれば、誰も文句が言えないというわけだ。

 実は、イメージで人を上に立たせる傾向とか、過去の実績が最高の権威になるという傾向は、野球の監督だけではない。同じスポーツの場合では、大相撲の協会理事などの人事にも似た傾向がある。その一方で、サッカーの場合は、そんな甘い人事をすれば絶対に勝てないので、全日本A代表にせよ、U21にせよ勝つための純粋なスキルで人事が決まり、場合によっては全世界から監督が招聘されている。

 それだけではなく、一般企業の人事や、地方の首長から総理大臣に至る特別職の人事も、似たような傾向がある。スキルよりイメージで人選がされ、現在必要な先端スキルではなく、過去の実績が絶対的な権威となる。このやり方で、官民合わせて人を担いできたことが、40年近く延々と国の衰退を続けてきた原因であるのは間違いない。

 長嶋茂雄氏の話題に戻るのであれば、やはりその華麗そのものであった現役時代のことを、この機会に知っていただきたいと思う。実働17年で首位打者6回、MVP5回もさることながら、日本シリーズMVPが4回、日本シリーズ通算安打が91という数字はやはり永遠である。理論を超越した柔軟な打撃フォーム、華やかな守備とともに「サード長嶋、背番号3」の勇姿を世代を越えて記憶していけたらと思う。

(れいぜい・あきひこ/作家・プリンストン在住)