国家的悲劇としての熊本地震

 1995年の阪神淡路大震災は多くの人命を奪い、大規模なインフラを破壊した。けれども、当時の日本の経済力は被災全域の復興を迅速に実現した。2011年の東日本大震災においては、特に津波の被災地域においては嵩上げと巨大堤防という巨額投資がされた。結果的に人口減を加速させたが、少なくとも現場の政財界が求めたインフラ復興は実現した。

 けれども、2024年の能登震災では状況は暗転した。過疎地への復興投資を疑って都会の有権者に媚びる言動が野党勢力から飛び出したのを良いことに、政府の動きは鈍かった。主要幹線道の修復も上水道インフラの回復も信じられないほど遅かったのである。

 そして、今回の熊本地震である。2016年に2回の震度7を経験したほぼ同じ地域を、改めて強烈な揺れが襲った。10年前の教訓は確かに生きており、この間の耐震投資の成果はあったと見られる。けれども、震災の被害と復興への見通しを考えると、今回の事態は10年前の震災とは比較にならないものを感じる。今回動いた断層以外にも、日本列島には危険な「Sクラス」の断層が多く走る。これが、俗に言う直下型震災の危険につながっている。それとは別に、南海トラフのリスクがある。そんな中で、今回の熊本の事態は改めて地震の可能性というのが国家的な危機であり、いったん被災してしまうと危機は悲劇に転じるということを否が応でも感じさせている。東日本や能登の震災は過疎高齢化と震災の二重被災という悲劇であったのは間違いない。けれども、今回の26年熊本地震が示すものは、日本列島の全ての地域、全ての国民に危機を突きつけているということで、過去のいずれの震災とも意味合いが異なる。

 3点指摘しておきたい。

 1点目は、震災と酷暑のダブル被災という問題だ。夏季限定のリスクではあるものの、このリスクについては全国一律に直面しているのは間違いない。例えば、南海トラフにしても首都直下型にしても、酷暑の時期に発生した場合、今のままでは膨大な関連死が発生する。日本の夏は高温多湿だから風通しの良い建築で対応というのは過去の話であり、現在のような摂氏40度で湿度75%という中では、電力が途絶えてエアコンが停止した場合には多くの人口が死に直面してしまう。対策は可能だが巨額の投資を必要とする中で、社会的な合意形成が必要だ。

 2点目は、誤った社会的心理である。東日本から能登にかけてネット社会では、多くの誤った意見が幅を利かせるようになってしまった。まずボランティアについては、「受け入れ態勢が整わない以前に現地入りするのは悪」だとして摘発、また政治家については「被災地入りは売名行為」だとして徹底非難、更には「マスコミの取材活動は被災者に迷惑」だとして批判という三点セットである。どれも個別には正しい場合もあるだろうが、一般論としては暴論であり弊害ばかりである。けれども残念ながらこの種の指摘が横行する中で、関係者が効果的に動けていない。

 3点目は、耐震性の問題だ。前述したように、今回は10年前の震災と比較すると、倒壊家屋の数から見られるように耐震建築の効果は歴然としている。けれども、局所的には非常に大きな揺れに襲われて甚大な被害が出ているのは否定できない。

 例えば、九州新幹線については事故につながるような脱線は避けられたが、設備の破壊は10年前より深刻である。軌道の断裂や高架橋のズレなどを生じており、復旧には数カ月単位以上を要すると見られている。高速道も同様であり、要衝の部分で高架橋の損傷が激しい。

 製紙工場の煙突倒壊にについても、ショッピングモールのガス漏れにしても、詳細は調査を待つしかないが、どうやら想定外の激しい揺れが耐震性能を上回ってしまったようだ。八代市役所の免震構造破壊も同様である。日本の震度基準では最高を震度7として、揺れの加速度と周期を中心に定義がされている。また、この数値を前提に免震・耐震技術を積み上げてきた。けれども、震度7の数値をはるかに上回る揺れが起きるとなると、免震・耐震への投資をどこまで追加するのかは、国家的判断となる。現状では足りないとしても、国力の問題として無限に投資はできない。

 今回震災への対応は、こうした意味で全国民を当事者とした深刻な課題を提起していると言える。

(れいぜい・あきひこ/作家・プリンストン在住)