リトル・イタリーの朝食

常盤新平 ニューヨーカー三昧 I LOVE NEW YORKER 11

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 ニューヨークをはじめて訪れたときは、二週間の予定が出版社めぐりで終わってしまった。

 出版社やエージェンシーを何十社か訪ねたのだが、五番街にあったサイモン&シュスター社(S&S)のことはわりによく憶えている。

 受付が広くて薄暗くて、重厚な感じがした。会ってくれたのは著作権担当の中年女性で、半年後に出版予定のゲラ刷を見せてくれて、そのあと別のプルーフ(見本)をホテルに届けてくれた。

 ホテルは五十九丁目と五番街の角のプラザだった。高級ホテルに滞在したほうが「何かと便利だから」と旅行代理店にすすめられたのだ。

その後、アメリカの出版社は吸収合併を繰り返して、私などにはよくわからなくなってしまった。

 当時、私は翻訳専門出版社の編集部員で、出版界の業界誌「パブリッシャーズ・ウィークリー」(PW)を読むのが仕事の一つだった。

 仕事というよりも楽しみにしていた。

 とりわけ春秋の新刊予告を並べたぶあつい特集号が待ち遠しかった。

 アメリカは私にとってはまだ見ぬ国で、ニューヨークに行くのは、夢のまた夢だろうと諦めていた。ドルが高かった。

 幸いと勤めていた出版社がつぎつぎとベストセラーを出して繁栄し、そのおかげで私もニューヨーク出張ということになった。

 一九六七年のことだったと思う。

 ニューヨークについてはそれまでにガイドブックを集めて、それを読んでいたから、ニューヨークのことならなんでもわかるとうぬぼれていた。

 でも、はじめてのニューヨークでそのうぬぼれを打ちくだかれた。

 百聞は一見にしかずとはこのことだ。

 一九八〇年代にはいってから、ニューヨークへ行く機会がしばしばやってきた。 

 私はすでに会社勤めを辞めていて、翻訳と雑文書きに精を出していた。

 有難いことに雑誌などの取材でニューヨークを訪れる機会にも恵まれた。

 バブルの時代が来ていて、私もその恩恵にあずかることができた。

 その時代を過ぎて、海外へ出かけることもなくなり、今やのんびり温泉につかることもめったにない。

 昨今はひまができると、ニューヨークのガイドブックをひろげてみる。

 その一冊は地球の歩き方シリーズの「ニューヨーク」だが、私が所持しているのは一九九六ー七年度版だから、もうひと昔前のものだ。それでも、読んでみると面白い。

 もう一冊は「レッツゴー・ニューヨーク」の〇七年版。

 そのほかにもNYガイドブックはまめに集めたので、たくさんあるのだが、本の山から取り出せない。

 二冊のがイドブックにはもちろんリトル・イタリーが出てくる。ここは映画の「ゴッドファーザー」にも登場した。

 リトル・イタリーのマルベリー・ストリートはなんども歩いている。

 一度はサン・ジェンナロという聖人のお祭りの日だった。

 この聖人の像が街の通りを練り歩くのを見物した。

 このあたりは十九世紀半ばからイタリア人と中国人の移民が流れこんできて、リトル・イタリーとチャイナタウンができたという。

 今はチャイナタウンがリトル・イタリーまで進出してきている。

 カナル・ストリートに近いマルベリー・ストリートにあるラ・ベッラ・フェラーラというカフェでパスタとカプチーノの昼食をとったことがある。

 朝の八時ごろ西四十四丁目のホテルからタクシーを拾って行ったのだ。一人で行ったのだが、そのころにはダウンタウンもすでに安全な街になっていた。(2010年5月22日号掲載)

(写真)リトル・イタリー「ラ・ベッラ・フェラーラ」のウエイトレス(撮影・三浦良一)


常盤新平(ときわしんぺい、1931年〜2013年)=作家、翻訳家。岩手県水沢市(現・奥州市)生まれ。早稲田大学文学部英文科卒。同大学院修了。早川書房に入社し、『ハヤカワ・ミステリ・マガジン』の編集長を経てフリーの文筆生活に入る。86年に初の自伝的小説『遠いアメリカ』で第96回直木賞受賞。本紙「週刊NY生活」に2007年から2010年まで約3年余りコラム「ニューヨーカー三昧」に24作品を書き下ろし連載。13年『私の「ニューヨーカー」グラフィティ』(幻戯書房)に収録。本紙ではその中から12作品を復刻連載します。