日本人に縁のある高原

カンボジア キリロム

 坂本九の「上を向いて歩こう」。1961年に発売され世界的大ヒットになったこの曲は、カンボジアでもほぼ同時期から歌われてきた。ラブソング「パラダイス・キリロム」という歌に変わって。川や滝がある避暑地「キリロム高原」は、70年代の内戦下で共産主義を唱えるポル・ポト派の支配地域となり、長い間歌でしか知らない憧れの地だった。今では首都プノンペンから車で約3時間ほど、多くの人が川遊びやサイクリング、エコツーリズムを楽しんでいる。私が初めて訪れたのは、治安がよくなったばかりの2000年だった。熱帯雨林のカンボジアにしては珍しく松林が続く風景。建物と言えば廃墟と化した国王の別荘しかなく、片道4時間強の日帰りバス旅行だった。
 今夏、数年ぶりにカンボジアを再訪して「老後はここに戻りたい。でもこの暑さに耐えらえるか…」と話すと、「じゃ、キリロムへ行ってみない? 日本人が大学とリゾートを作っている」と友人が車を出してくれた。IT起業家の猪塚武さんが大事業を展開しているという。半信半疑で出かけた。
 首都プノンペンから車で約3時間。道路はほぼ整備され、かつてのように雨季は泥道でグチャグチャ、工事中で一方通行などということがなく、都市部の渋滞を避けて北に抜ける快適なドライブだった。国道を北に曲がって、キリロム高原へと一直線。バナナ畑と管理小屋がポツポツと見える殺風景な光景は20年前と変わらない。舗装された山道をあがり切り開いたばかりの赤土の大きな道を進むと、一戸建てが数件見えてきた。リゾート開発地らしい。しばらく行くと、林の中にキャンプ小屋が数件ある。その先に「キリロム・インスティチュート・オブ・テクノロジー(KIT)」との看板が見えるが、建物が聳えたっているわけではない。そしてその先に、独立した宿泊施設やオープンスペースのレストランが見えてきた。これが噂のリゾート「ヴィキリロム」。

 平日で客は誰もいない様子だが従業員は数人いて、タンドリーチキン用の大きな焼き窯がある。マネージャー風の人もインド人。メニューにはインド料理や日本料理が並ぶ。食事中、KIT所長の別宮健三郎さんがやってきた。友人が猪塚さんと懇意で到着を先方に伝えていたようだ。ラップトップを開けて別宮さんがキリロム開発について解説してくれる。1万ヘクタール、ヤンキースタジアム2000個分、山手線圏内に匹敵する広大な土地をカンボジア政府から無償で借り受け、教育、エコツーリズム、都市計画の事業を推進中という。KITは2014年に創設、数学とIQと英語の試験を経て25倍の倍率を勝ち抜いた生徒がカンボジア全土から集まっていて、18年からは日本人学生の受け入れも始めた。ITと英語とリーダーシップに力を入れ、午前は勉強、午後は支援企業とのプロジェクトを行っている。「若者だけでなく高齢者が暮らすCCRC(Counting Care Retirement Community)も設置した都市づくりを目指す」と壮大な構想を語る。「これぞ我が目的」とお返事するが、どれほどの資金力なのだろう。
 別宮さんの案内でKITへ。屋根しか見えなかったが階段を降りると、谷間のような形で、斜面を利用した教室がいくつか並んでいた。天井扇風機のもと、学生が学んでいる。教師陣はインド人。なるほど、だからタンドリー窯か。きれいな英語を話す学生がパワーポイントで現在取り組んでいるプロジェクトについて説明してくれた。学校の施設は簡易な印象だが、優秀そうな学生がラップトップ片手にせわしく行き交い、講義を受けたり議論したりしているさまは不思議な光景だった。200人もの学生が暮らす寮は森林のどこかにあるらしい。
 灼熱のカンボジアだが、キリロム高原は夜はぐっと冷え込む。ちょうど手にした無料誌「プノン」に、50年代半ばに日本からの大規模な移民計画があったことが記されていた。カンボジアが日本への戦後賠償請求を放棄したことへの感謝として、5万人もの農業移民を送りこみ「高原都市建設計画」があったというのだ。初めて知ったが、60年代に電気技師として駐在していた北川泰弘さん(故人)は「日本人会の別荘があってね。トッケイ(やもり)が大声で鳴いていたんだ」と話してくれたことがあった。また、ここにだけに松林があるのは、山田長政がシャム(現在のタイ)活躍した頃にカンボジアの日本人町にも100人ほど住んでいて「サムライが松を植えた」と話す人もいた。現首相の独裁や中国政府の大規模支援など、カンボジアの将来は不透明だが、果たして日本人に縁あるキリロム高原でリタイア生活を送れる日が来るのだろうか。 
(小味かおる、写真も)