日本時間10月27日(月)午前3時3分に、私の最愛の祖母が他界した。1923年大正12年生まれの彼女は、戦前、戦中、戦後を生き抜いてきた愛情溢れる優しい女性だった。私は彼女が47歳の時の初孫だったこともあり、それはそれは可愛がってもらった。厳しい母とは対照的に、いつもニコニコ優しい祖母から怒られた事はただの一度も無く、彼女の元で私はいつも伸び伸びして、癒されていた。幼い頃は週末に、しょっちゅう祖母の家に行っていたが、祖母の料理は美味しく、ねだればいつでも買ってもらえた本や漫画も嬉しく、寝る時は添い寝しながら聞かせてくれる昔話は、何よりも楽しみだった。
祖母は愛知県常滑市で生まれ海の近くで育った。裕福な金物屋の末っ子として生まれ、朝は女中さんに三つ編みを編んでもらい、美味しいお弁当を作ってもらって近所の友人と学校に通った話は、何の変哲もないのに何度聞いても飽きなかった。彼女は女学校を卒業した後、ある商社の英文タイピストとして働く様になった。上司にも可愛がられ、仕事もやり甲斐があり楽しかったらしいが、一年後に戦争が始まった。OLの服はたちまちモンペとなり、また沢山持っていた着物やアクセサリーは根こそぎ憲兵に取られたらしい。そして赤紙が来て祖母の3人の兄達が順番に兵隊に取られていく様子、出来が良く将来を嘱望されていた優秀な兄が亡くなった時に、曽祖母が 「XXが死んでしまったーっ!!」と号泣して泣き崩れたという話などは何度聞いても胸が痛く、戦中の一般的な国民とは、どこもこんな感じだったのだろうな、、と祖母の話から想像を巡らせていた。
祖母は祖父と結婚後、京都で家庭を持ち、家族経営をしていた美容院で働いていたので、私は幼い頃よく、祖母に美容院のシャンプー台で髪を洗ってもらっていた。その後、旧式の大きなヘアドライヤーに入り、ガーッと髪を乾かすのも楽しみだったが、それより好きだったのは、鏡の張り巡らされたヘアサロンで、その場にいるお客さん達の前で歌う事だった。
まだ小さかったので、皆聴いてくれたのだとも思うが、終わった後みんな笑顔で拍手をして喜んでくれる事が、本当に楽しく嬉しかった。歌手になりたいと言う思いは、おぼろげながらもあの頃に芽生えたものだったような気もする。私が歌手として舞台に立つようになってからは、関西に限らず、東京でのコンサートにもよく来てくれて、終わった後に必ず「麻子ちゃんキレイやったよー」と、歌ではなく舞台姿を褒めてくれるのもなんだか可笑しいやら嬉しいやらだった。私が芸大の試験に落ちて傷心だった時に、祖母の家を訪ね、朝から晩まで歌っている姿を見て、ぼそっと小さな声で、「こんなに上手なのになんで落ちたんやろか・・・」と言ってくれた言葉に涙した事もあった。
祖母は晩年になっても、身なりに気を遣う人だった。90歳を超えても化粧セットを常に手元に置き、いつも髪や爪を美しく整え、薄く紅を差していた。祖母の為に、百歳のバースデーコンサートを行った時には、皆の前で歳を言ってくれるな、もっと若いと思ってる人もいるからと言われた。最後に会ったのは、ついニ週間ほど前のことだ。関西での仕事のため、たまたま日本に帰国していた私は本当に幸運だった。近年は少しずつ弱っていたけれど、それでも頭はしっかりしていて、最後に極上の笑顔を私に見せてくれた。あの笑顔はまるで最期の贈り物のように胸に残っている。
10月27日午前3時3分。知らせを受けた時、遠く離れた空の下で、夜の闇が更に静まり返るのを感じた瞬間、不思議と涙ではなく深い感謝の気持ちが込み上げてきた。祖母が生きた102年の歳月は、日本の激動の時代そのものだった。戦争の痛みを知り、平和の尊さを味わいながら、いつも周りに優しさを分け与え続けた彼女。今の人は感謝が足りないとよく言っていた。その人生は派手ではなかったけれど、その穏やかな強さと愛情は、確かに私の中に息づいている。
これからも舞台に立つたび、スポットライトの向こうに祖母の「麻子ちゃん、きれいだったよ」と、言う声を聴くのだろう。あーちゃん、ありがとう。
田村麻子=ソプラノ歌手。ニューヨークを拠点にカーネギーホール、リンカーンセンター、ロイヤルアルバートホール主役を歌う声楽家。ニューヨーク在住。

