飯塚国雄回顧展

NY日系人会館で開催

 7月14日に亡くなったニューヨーク日本人美術家協会(JAANY)会長で創設者でもあるアーティストの飯塚国雄さんの追悼回顧展が8月24日、ニューヨーク日系人会で開催された。演出家で長男の励生(れお)さん(55)が来米、1回20人までの4つの時間帯に分けて密にならないよう社会的距離を保ちながらニューヨーク総領事の山野内勘二大使始め、生前交流のあったアーティスト仲間ら総数80人余りが来場した。

 励生さんは「父は4月初旬に新型コロナウイルスに感染して入院、約1か月間の治療を経て4月末に陰性の診断を受け退院、リハビリセンターに移ったが、その後後遺症や心臓の機能低下となり回復しなかった。4か月間、すごく頑張って、こんな病気に負けねえぞ、頑張るぞと言っていた。81年間、人生を頑張って生きてきた父だった。60年ほどの時間、世界の問題、迷い、恐怖、怒り、愛情を自分の芸術を使って世間に伝える仕事をした。残った遺品を整理していたらどのズボンの中にも日本の歌謡曲の歌詞カードが入っていた。絵を描くことだけでなく歌を歌ってみなさんを楽しませることも好きだった。リュックサックの中にはスケッチブック2冊、鉛筆、筆ペン、クレヨンなどの画材が入っていた。反戦、反原発という上の世代、若い世代のために作品はこれからも生き続けると思う。生き生きと悔いを残さず生きていた、多くの友人たちの愛情、サポートを感謝しています」と挨拶した。

 山野内大使は「昨年9月にニューヨーク日本人美術家協会の第47回年次絵画展でお目にかかりご挨拶したのがきっかけで、長崎の作品など多く拝見した。自分も佐世保で育ったので長崎には近く、平和を願う気持ち、ここに展示された作品がよくわかる。71年当時はまだベトナム戦争の名残のある時代にそういうエネルギーのある作品を残された、力強い方だったと思う。命日が7月14日とフランス革命の日と重なり、ことを成し遂げて去って行かれるのもそういう星の下に生まれた方なんだと感じた。絵が人柄を表しておられ、作品は永遠に残り、世の中に光と勇気を与えてくれると思う」と挨拶した。

  飯塚さんは1939年東京生まれ。逗子開成高校、お茶の水美術学院卒業後61年渡米。その後永住権を取得し、ニューヨークの「アート・スチューデント・リーグ」彫刻スクールで教鞭を執った。73年ニューヨーク日本人美術家協会を創立し、初代会長となる。医師だった母親の愛を注がれて母子で育ち、渡米前の結婚後に探し充てたまだ見ぬ父親が被爆者であったことを知り、反核がアート活動の根源となった。95年ニューヨークの国連本部で反核個展「われわれはどこへ向うのか」展を開催。その重いテーマ性から社会派作家とも称されるが、恋人や愛をテーマにした作品も数多く残しており、すべてが人間主義に貫かれていた。98年に紺綬褒章を受賞。

週刊NY生活ギャラリーで
飯塚さんの作品を常設展示

 飯塚国雄さんご本人の生前の同意により、著作相続権を持つ遺族の励生さんの許可をこのほど得られたことから本紙週刊NY生活のウェブ版(https://nyseikatsu.com/gallery/com)内にあるオンラインアート画廊「週刊NY生活ギャラリー」に10月から飯塚氏の作品10点が常設展示で登場する。世界中から飯塚さんの作品をいつでも無料で見ることができるだけでなく購入することも可能になる。