地下鉄で、アケマシテ、オメデトーゴザイマス ニューヨークの魔法

 黒人の女の人が地下鉄に乗り込んでくるなり、床に携帯電話を落とした。私の隣にすわっている白人の男の人が、それに気づくと、突然、その女の人に向かって、まるで攻撃するような口調でまくし立てた。

 そんなものを持ち歩いているから、本当の意味でのコミュニケーションを、みんな忘れてしまっているんだよ。前はちゃんと相手の目を見て会話していた夫婦だって、今じゃ一緒にいても、ふたりとも手には携帯電話を持っているんだ。

 八月の土曜日の昼頃だったので、乗り合わせた人たちは皆、半袖のTシャツかポロシャツだが、彼だけ、よれよれではあるけれど、スーツにネクタイ姿だ。女の人は別に不愉快そうな顔をするでもなく、ときにほほ笑み、私の場合、そういう心配はないわよ、などと返事をしながら、言葉を交わしている。

 用があって、私が携帯電話を取り出した。隣の男の人の視線を感じる。今度は私に説教するのだろう。

 少し緊張していると、案の定、男性が私に向かって話しかけた。

 Big smile! Big smile! アケマシテ、オメデトーゴザイマス。

 お盆の時期に、なぜか日本語でこの挨拶。私は仏頂面づらだったのか。思い切り、作り笑いしてみるが、その人は何も言わない。

 少し間を置いてから、君は東京の出身か、と尋ねてきたので、そうです、と答える。

 イサム・ノグチを知ってるかい。

 イサム・ノグチはアメリカ生まれの著名な彫刻家だ。彼の美術館が、マンハッタンの川向こうのクイーンズ区にある。

 はい、知ってますよ。

 彼は素晴らしい男だよ。

 友だちだったんですか。

 友だちじゃないが、何度か会ったことがある。彼の美術館は行ったかい。素晴らしいよ。彼は重要な男だ。

 あなたも芸術家なんですか。

 そうだよ。絵も描くし、彫刻もやるし、作曲もする。イサム・ノグチについて詩を書いたこともあるんだ。

 彼はイサム・ノグチについて話し終えると、バッグの中からスケッチブックのような厚手のノートとペンを取り出し、車両の向こうをじっと見つめている。

 地下鉄で絵を描くんですか。

 Yes. I’m trying to concentrate. Thank you. Nice to meet you.

 そうだよ。今、集中しようとしているところなんだ。ありがとう。会えてうれしいよ。

 つまり、私はこれから絵を描くから、邪魔しないでくれ、というわけだ。

 絵のモデルを見つけたようで、スケッチブックにペンを滑らせ始めた。私は気づかれないように、そっと横目でのぞいてみる。

 少し太めの女の人の絵を、さらさらと描いている。見かけによらず、漫画チックなかわいらしい絵だ。彼の視線の先に、それらしきヒスパニック系の体格のいい中年女性がすわっている。

 モデル選びのポイントは、何なのだろう。聞いてみたかったが、邪魔するなと言われているので、黙っている。

 と、突然、手を止め、私たちの前にすわっている若い黒人の女性グループに声をかける。

 違うよ、次の駅はロックフェラーセンターじゃない。五番街だ。で、その次がロックフェラーセンターだよ。

 スケッチに集中しているのかと思ったら、他人の話に耳をそばだてていたのだ。

 彼が話していた“本当の意味でのコミュニケーション”を、実践しているというわけか。

 おかげで、私も乗り過ごさずに済みそうだ。

 五番街の駅に地下鉄が到着する。

 It was nice meeting you.

 お会いできて、うれしかったです。

 文字どおりの気持ちを込めて、そう絵描きに声をかける。

 彼はスケッチブックから一瞬だけ顔を上げ、笑顔で同じ言葉を私に返した。

 このエッセイは、「ニューヨークの魔法」シリーズ第7弾『ニューヨークの魔法の約束』に収録されています。

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