つげ義春 夢と旅の世界

山下裕二、成井昭人、東村アキコ・著
新潮社・刊

 漫画家のつげ義春氏が3月3日、誤嚥性肺炎のため逝去した。享年88歳だった。戦後の昭和に異色の世界観で漫画の魅力を残した名人がまた一人逝った。私小説的手法と幻想性を融合させ、日本の漫画表現に独自の地平を切り開いた作家の死は、単なる一時代の終焉にとどまらず、戦後サブカルチャー史の重要な一章の幕引きを意味している。

 つげは1960年代後半、青林堂の月間漫画雑誌『ガロ』を舞台に頭角を現した。とりわけ1968年発表の代表作「ねじ式」は、夢と現実が錯綜する不条理な構成と強烈なイメージによって、多くの読者に衝撃を与えた。その作品世界は、従来の娯楽漫画とは一線を画し、「読む」という行為そのものを問い直すような深い内省性を帯びていた。

 当時小学校6年生だった私は、友人の家で友人の兄が定期購読していた『ガロ』の6月臨時増刊号に掲載されていたその「ねじ式」を見て衝撃を受け、早速親に頼んで翌月から我が家でも地元の書店から定期購読を始めた。それは大学を卒業して、青林堂の発行人・長井勝一氏が亡くなり廃刊になるまで続いた。今でもニューヨークの自宅にはつげ作品を収録したオリジナルの『ガロ』が汗牛充棟(かんぎゅうじゅうとう)となって壁を埋めている。

 つげは、以後も「無能の人」「紅い花」「ゲンセンカン主人」「李さん一家」など、日常の中の不安や孤独、逃避願望を静謐な筆致で描き続けたが、1980年代以降は寡作となり、次第に公の場から距離を置くようになる。その沈黙もまた、つげという作家の神話性を強める一因となった。作品数は決して多くないが、その一編一編が持つ密度と余韻は、後進の漫画家や表現者に計り知れない影響を与え続けている。今思えば、水木しげるの「墓場の鬼太郎」の背景をアシスタント時代の若き日のつげが描いていたというのも納得だ。

 こうしたつげ義春の全体像を俯瞰するうえで有用なのが、新潮社の『つげ義春 夢と旅の世界』だ。本書は、彼の作品に通底する「旅」と「夢」というモチーフに焦点を当て、紀行的側面と内面的風景を重ね合わせながら、その創作の源泉を探っている。つげ作品にしばしば登場する鄙びた温泉地や地方の風景は、単なる舞台設定ではなく、作者自身の精神の揺らぎを映す鏡でもある。本書は豊富な図版と丁寧な解説によって、読者をその世界へと導く格好の入門書となっている。

 一方、作品そのものの核心に迫るには、『ねじ式 つげ義春作品集(改訂版)』(青林工芸舎)も欠かせない。表題作「ねじ式」をはじめ、代表的短編を収めたこの改訂版は、紙面の青インクの再現性や編集の精度においても高く評価されている。

 つげ義春の死を受け、彼の作品は再び新たな読者層に開かれていくに違いない。その表現はむしろ今日的な意味を帯び、時代を超えて響く、静かで深い人間の内面の声がある。

 2017年に日本漫画家協会賞大賞を受賞。2024年には旭日中綬章を受賞。海外での評価も高く、2020年にアングレーム国際漫画祭で特別栄誉賞を受賞している。合掌。 (三浦)