編集後記 9月5日号

■【編集後記】
  みなさん、こんにちは。米国同時多発テロから19年たちました。9月11日、火曜日。あの日の朝は、秋を思わせる高い青空の快晴だった。午前8時25分発のメトロノース鉄道のママロネック駅からいつものように通勤電車に乗りマンハッタンに向かった。NYタイムズに一通り目を通したあと、ぼーっと窓の外を眺めていたら、ブロンクスに入ったあたりで、南の空の遠いところに、逆光でキラキラと光る銀河のような金属のような光の帯が風の流れに乗って星屑のように西へ西へと長く尾を引いて流れて飛んで行くのが見えた。「綺麗だな。なんだろ」と眺めていた。ほどなくして、車内の携帯電話という携帯電話が、けたたましく鳴った。「なんだって?」「オーマイガッ!」車内は騒然となった。私の携帯は鳴らなかった。何が起こっているのか分からなかった。乗客が騒いでいるが、恥ずかしい話、その時、何を話しているのかも理解できなかった。まさか、さっき見た空に流れる金属破片の光の帯が、突入した旅客機の飛び散った破片だったとは思いもよらず。電車がイーストリバーを超え、マンハッタンに入った最初の駅、ハーレム125丁目の駅で、ほとんどの乗客が慌てたように下車していった。グランドセントラル駅も標的になっているかもしれないとの情報があったようだ。状況が飲み込めていない私は会社に行かなくてはならないのでとにかくグランドセントラル駅までそのまま乗って行った。電車の中は、さながら、少し前のコロナ・パンデミックで乗客のほとんどいないガラガラ状態になっていたのを記憶している。駅に着いた時の記憶はない。マジソン街を歩いて47丁目の銀行のウインドウにあった大型テレビに人々が群がって見入っていた。なんだろうと覗き込むと、世界貿易センタービルから黒煙が上がっている映像だった。後ろを振り返ると、南のはるか向こうで、本物のビルからもうもうと黒煙が上がっていた。慌てて会社に走った。何が起こっているのかも分からなかったが、五番街に出たところでカメラのシャッターを切った=写真=。当時五番街52丁目にあった読売アメリカの編集部に着いてすぐ2棟目にも旅客機が突入した。まるで昨日のことのように今も記憶に残っている。死者2996人、負傷者6000人以上。日本人犠牲者の大半が世界貿易センタービルで被害に遭い、このうち12人が富士銀行とそのグループ企業の行員だった。新型コロナウイルスのパンデミックで閉鎖されていた9・11メモリアル&ミュージアムが、今月12日(土)から6か月ぶりに再オープンし一般公開を開始する。同館はまず同事件の犠牲者遺族を対象に11日に再開し、翌日から一般の入館が可能になる。犠牲者に今年も祈りを捧げて。それでは、みなさんよい週末を。(「週刊NY生活」発行人兼CEO三浦良一)