皆様、少しご無沙汰してしまいました。先月体調を大きく崩し、原稿を間に合わせる事が出来なかったばかりか、月末に予定されていた日本での2つのコンサートも、やむなくキャンセルせざるを得ない状態でした。更に、5月初頭に当地ニューヨークで予定されているオペラ「白狐」のタイトルロール(題名主役)も、断腸の思いで降板する事となりました。残念ですが、やはり健康あってこその舞台であり、今自分にとって必要な決断でした。思えば、20代でオペラ公演の初舞台を踏んで以来、これまで1度たりともオペラやコンサートを降板した事はなく、今初めての新たな感情に向き合っています。30代の頃、アメリカのあるオペラカンパニーで、ある公演の主役を務めた事がありました。米初演だった事もあり、入念な準備の末舞台に臨み、幸いにも良い評価を頂きましたが、公演最終日の朝、突然原因不明の体調不良に見舞われ、ベッドから起き上がれない事態に陥りました。オーディションでやっと掴んだ大役を、全公演やり切りたいと言う思いと、大きな責任感に突き動かされ、気力と若さで何とか舞台に立ちましたが、舞台に出る直前までトイレで吐き気に苦しみ、舞台袖の椅子にぐったりと寝込み、幕が降りたと同時に気絶するような状態だったことを覚えています。幸い体調は悪くとも、声の調子は悪くなかったので勝負に出ましたが、もし出来が良くなかったとしたら、事情を知らない観客や批評家は当然、その舞台のみで評価したことでしょう。そのようなリスクを負いながらも私が歌う選択をしたのは、たとえ1公演でも、主役を務める事が、どれほど貴重かと言うバリューをわかっていたからでした。舞台芸術の世界は、競争も激しく厳しく、過酷な世界です。どのオペラ歌手にとっても、主役を務める事は一世一代の大きな経験です。全身全霊で取り組む準備を重ねた上での、舞台の成功は、尋常ならぬ達成感を与えてくれますし、人生の最後に思い出すような体験となる反面、途方もないプレッシャーや莫大な不安と闘わなくてはいけない事もあります。加えて、スター歌手でもない限り、役を掴むためには舞台で成功し続ける必要があり、たとえ経験を積んだ後でもオーディションを受け続ける努力など、途切れることがありません。そんな世界の中で今回、初めて降板という選択をした事で、私はまた別の角度から舞台に立つことの尊さを学びました。
健康であること、声と心が整っていること、そして何より、舞台に立つという奇跡のような機会への感謝ーこれまでも当たり前などと思った事はありませんが、それは努力だけでなく、タイミングや人の縁と言ったものが合わさって、漸く叶うと言う事も深く実感しています。
今は静かに体を整えつつ、自分自身と向き合う時間を過ごしていますが、必ず又舞台に戻るつもりです。この経験が、未来の自分を支えてくれるでしょう。皆様にもいつか又お目にかかれる日を心から願っています。
田村麻子=ニューヨークタイムズからも「輝くソプラノ」として高い評価を受ける声楽家。NYを拠点にカーネギーホール、リンカーンセンター、ロイヤルアルバートホールなど世界一流のオペラ舞台で主役を歌う。W杯決勝戦前夜コンサートにて3大テノールと共演、ヤンキース試合前に国歌斉唱など活躍は多岐に渡る。2021年に公共放送網(PBS)にて全米放映デビュー。国立音大、東京藝大、マネス音楽院卒業。京都城陽大使。

