バスの守り神

ニューヨークのとけない魔法 ⑩
岡田光世

 夜九時頃だったので、かなり不安だった。知人の家はバス停から近いとはいえ、アメリカでは、夜の郊外の住宅地に人影はほとんどない。以前、この州で別の友人のところへ行ったときに、バスを乗りすごしてしまい、夜の見知らぬ場所で大変な目にあった。

 ハドソン川の川向こう、ニュージャージー州に住む知り合いの一軒家に、何日間か泊まることになっていた。

 マンハッタン北部のジョージ・ワシントン・ブリッジ・バスターミナルで、ニュージャージーへ向かうバスにひとりで乗った。そのバスに乗るのは、初めてだった。

 Dアベニューで降りたいんだけど、着いたら教えてもらえますか、とドライバーに頼むと、もちろんだよ、と答えた。

 空いていたので、声をかけてもらいやすいように、一番前にすわった。

 若い白人の女性が降りるとき、ドライバーと楽しそうにことばを交わし、彼に何か手渡した。その人が降りると、ドライバーが私にそれを見せた。

 彼女が出場するんだってさ。

 プロボクシングの試合の招待券だという。

 バスはそれから、十分ほど走っただろうか。

 次だよ、とドライバーが教えてくれ、私はバスを降りる。

 住宅地に人気はまったくない。暗闇のなか、道のない草むらを下り、歩道に出る。

 その先にある、幹線道路の下の真っ暗なアンダーパスを、一気に駆け抜ける。

 ここで襲われたら、車の騒音もあるし、叫んでも誰にも聞こえないだろう。

 家には住所の番号が付いているが、暗いのでそばまで行かなければ見えない。

 ようやく知人の家の番号を見つけ、無事にたどり着いたときには、ほっと胸をなでおろした。

 翌日、友人とマンハッタンのレストランで夕食を取ったあと、同じバスを待っていた。手に下げているビニール袋には、食べきれなかった料理が入っている。店の人が余った分を、丸く平たい紙の容器に詰めてくれるのだ。容器の形で、ひと目でそれとわかる。

 バスに乗り込むと、ドライバーが言った。

 I remember you.

 ああ、君じゃないか。

 前夜の人だった。

 Dアベニューで降りたいんだけど、と私が言った。

 You said that yesterday.

 君、昨日、そう言ってたよ、

とドライバーが答えた。

 Oh, you have food. That’s good. Is that for your husband?

 おっ、食べ物だな。いいね。ダンナのかい。

 No. It’s for me.

 違うわ。これは私のよ。

 Oh, not for your husband?

 なんだ、ダンナのじゃないのか。

 No. He’s in Japan.

 違うわよ。ダンナは日本なの。

 He’s in Japan? How can you do that to him?

 ダンナは日本?  よくそんな目にあわせられるな。

 真面目な顔で、私をからかった。

 ダンナをひとりにして、よく君だけニューヨークにいられるな、ということか。

 三日目、バスに乗りこむと、偶然また、同じドライバーだった。

 Hey, sweetie.

 やあ、スウィーティー。また、君じゃないか。

 彼は私に気づき、声をかけると、バスの後部に何かを点検しに行った。

 私はバスが走り出すまで、前のほうの席にすわり、アイフォーンをいじっていた。

 D Avenue, right?

 Dアベニュー、だろ?

 顔を上げると、目の前にドライバーが立っていた。

 Yes. You have a good memory.

 そうよ。なんて記憶力がいいのかしら。

 ほほ笑みながら、大きくうなずいた。

 Because now I know you.

 だって僕はもう、君のことをわかっているんだもの。

 ドライバーはこの三日間、私の守り神のようだった。

 彼は、バスというコミュニティへの「招待券」を、私に贈ってくれた。

 このエッセイは、シリーズ第8弾『ニューヨークの魔法のかかり方』に収録されています。

https://books.bunshun.jp/list/search-g?q=岡田光世