「正解」への道のり 視座点描

 新聞記者の1年生はだいたいが支局勤務でその地方の事件事故や裁判を担当します。出身が文学部だったので、事件がどう捜査され裁判がどう進むのかなど、刑事訴訟法や刑法については普通の人と同じくらいしか知りませんでした。勢いすぐに先輩記者に質問して叱られた。「聞けばなんでもわかると思うな。自分で調べなきゃ何にもならん」

 思えばそれがすべての基本。質問するにしても何がわからないのかがわからないと疑問も浮かばない。わからない点がわかったとしても次にどう調べればよいのかがわからなければ調べようもない。調べたとしても個別の案件に関しては既存の文献などには見当たらず、専門の人物に当たらねばならない──新聞記者に限りません。どんな仕事もそうでしょう。もっと言えば、どんな勉強も。

 ただ仕事と勉強は違う。勉強はきっと仕事をするときのための練習問題です。いわばプールに入る前の準備体操。そうしなければ脚が攣ったり体調を崩したりして溺れちゃうかもしれないから。

 ニューヨークのマムダニ市長が、この9月の新学期から市内60万人の公立小中学生が勉強で生成AIを使うことを禁じました。まさに「聞けばなんでもわかると思うな。自分で調べなきゃ何にもならん」です。

 一方で高校生にはますますAI化する世界に対応するために「AIリテラシー講座」を設け、「AI依存の前に、AIに関して批判的に考えられる」機会も与えるそうです。

 対して日本では文科省が「教育現場で生成AIを適切かつ積極的に活用していく」という推進ガイドラインを打ち出しました。もちろん生徒に丸投げしてAIを勝手に使わせるのではなく、あくまで「自分の考えへのアドバイス・壁打ち相手」としての道具との位置付けですが、一律ブロックのニューヨークとは立ち位置が違うように思えます。

 教育現場におけるAI利用の弊害はすでに多方面から指摘されています。

 私たちの実際の思考では誤ること、失敗することが大きな反省や学びとなって思考の転換や別次元の発想をもたらしたりします。何より自分で考え抜いて苦労して得られる答えはかなり楽しい。間違っていても悔しさというエネルギーを与えてくれる。

 対してAIは、その回答自体にも誤りやデッチ上げがありますが、それは反省や悔しさに結びつくというよりもAIへの責任転嫁となって自身の学びとは違うところに行ってしまう気がします。それに何より「正解」に一直線に向かうことで、紆余曲折や試行錯誤、思索の遊びといった想定外の楽しみが薄れてしまうのではないか?

 そう、コスパ、タイパといった効率一筋の生き方とは違う大切な何かがそこにはない──友情とか恋愛とか敬意とか、効率とは無縁の、それがどう役に立つかもわからない、その時には無駄に思われるバカみたいなものこそが、実は若さの醍醐味なのですから。

 おまけに、「テック業界は『早期からのAI教育は不可欠』と主張していますが、マムダニ市長は『利益を得る企業が資金提供した研究を除けば、小中学生にAIが有益であると示す明確な研究データ(エビデンス)はまだ存在しない』と指摘して、『企業の利益のために子どもたちの開発や教育環境が犠牲にされるべきではない』という立場をとっています」と、私の質問にGoogleのAIは回答しています(←確かに、すごい回答処理能力だなあ)。

 そんなことを考えていたら先頭を行くアメリカの生成AI企業「アンソロピック」の若手社員が「あと数年でAIがスーパーAIにまで進化し、邪魔者と認識した人類を絶滅させる恐れがある」と警告して退職したというニュースが伝わってきました。

 スーパーAIが誕生するのは早ければ来年だという情報もすでに報じられています。その危険性を認識しながらも開発の最中にいる研究者たちは開発競争から逃れられないという「呪縛」も指摘されています。

 どうすればよいのかもまたAIに質問すればよいのでしょうか? で、果たしてそこで、私たちが生き延びるための「正解」は得られるのでしょうか?

(武藤芳治/ジャーナリスト)