独立以降の米国は欧州からの移民が基盤を作ったことから、ヨーロッパ文明圏が新大陸に進出したに過ぎないという言い方は可能だ。だとすれば、米国が独立の文明を持つというのは過大評価となるかもしれない。けれども、2度の世界大戦を経て世界の盟主へと米国を押し上げたものは、やはり米国独自の文明であった。
具体的には、開拓民が育んだ独立独歩の気概と、都市が育んだ理想社会を実験し続ける気風が原点である。この2つの態度が、時代によって対立軸を変えながら、二大政党のダイナミックな牽制と協力というメカニズムを通じて社会経済に活力をもたらしてきた。理想と現実は矛盾するが、そこは現実主義で調整することで理想も現実も捨てないという米国流のプラグマティズムは、まさにこの2つの態度をルーツとして一大文明を築いたのである。けれども、建国250年を迎えた現在、二大政党は分断の泥沼を脱することができず、社会には閉塞感が満ちている。米国という文明は明らかに行き詰まっている。
問題は分断だけではない。現在アメリカにおいて分断や対立を形成している各グループの思想が、実は米国オリジナルではないということに、危機感を感じざるを得ない。まず、理念として機会の平等や国際協調、人種の平等などを掲げつつ、自由競争経済やグローバリズムを推進するという、クリントン、ブッシュ、オバマ3代12年間の政治は、実は米国独自のものではない。一言で言えば英国のトニー・ブレアが提唱した「第三の道」のコピーである。
勿論、同様の思想はアメリカにもあり、レーガン政権はそうした合理主義で国の荒廃を救ったというのは事実であろう。経済のグローバル化に適応したのはクリントンの功績かもしれない。けれども、思想として考えたときには、サッチャーの冷徹な合理主義に、ブレアが理念を接ぎ木していった「第三の道」にこそオリジナリティがあるのであって、クリントン、ブッシュ、オバマには厳密な意味でのオリジナリティはないのである。
さらに言えば、現政権に代表されるような反エリート感情を求心力とした自国中心主義というのは、2009年の金融危機を受けて経済社会が混乱したEUが発祥である。勿論、米国には孤立主義の伝統があり、ポピュリズムの歴史も多々ある。けれども、21世紀型の反エリート、反グローバリズムのポピュリズムということでは、英国のブレグジットやフランスのルペン父娘など欧州が先行しており、これもまたアメリカ独自のものではない。
本稿の時点で勢いが増している民主党の党内左派についていえば、思想としてほぼ100%欧州由来のものであって、これこそ独自性はない。公選による民主社会主義、左からの反グローバリズム、左からの反戦など、何もかもが欧州の長い歴史の中で変遷を経てきた思想以上でも以下でもない。彼らが重視している環境問題にしても、本家は欧州である。
つまり、90年代以降のアメリカで起きたことは、思想とか文明のレベルではオリジナリティに欠けるのだ。これでは世界最古の民主的な共和国として建国250年を祝うなどということは、かなり難しい。確かに、今回の250周年行事は盛り上がりに欠け、その背景には分断という問題がある。けれども、さらに根底の部分でアメリカがその文明の独自性を消失しているというのは、やはり深刻な問題であろう。
一方で、21世紀に入って以降も、アメリカの国力は衰えていない。これは何と言ってもテクノロジーの進歩に経済的な価値創出を組み合わせた民間が牽引した結果である。けれども、ここへ来てAIの急速な進歩により米国の民間活力も壁に突き当たっている。知的活動における機械依存と雇用危機、過剰な監視統制の可否、出力内容の真正性の確保など、人間とは何かという根源的な問いに立ち戻る必要が立ちはだかっている。
これは米国文明にとって正念場であろう。欧州のように環境やプライバシーなどの観点からブレーキを踏むのが良いのか、あるいは中国のように技術を統制の道具とする社会実験を続けていいのか、正答はそのどちらでもないに違いない。では、アメリカという文明はこの問題にどのような答えを出してゆくのか、アメリカはまさに歴史の岐路に差し掛かっている。
(れいぜい・あきひこ/作家・プリンストン在住)

