外資の介入なければ動かない日本社会

 9月1日付で百貨店の西武・そごうは、セブン&アイから米投資ファンドのフォートレス・インベストメントGに売却された。西武百貨店とそごうは、2009年に持株会社と3社合併してセブン&アイ(ヨーカドーとセブンイレブンを含む企業グループ)の保有となっていたが、14年を経て再びセブン&アイの手を離れた。

 本稿の時点で公表されている売却価格は8500万円とされている。西武・そごうの企業価値は2200億円となったとされているが、有利子負債や運転資金などをマイナスした結果、大きく減額された模様だ。これとは別に、セブン&アイは、西武・そごうに貸し付けていた約1959億円のうち、916億円を放棄している。この買収劇がセブン&アイ側の議決で決定された直後に、フォートレス・インベストメントGは、西武池袋本店の土地などを、ヨドバシホールディングスに売却すると発表した。売却価格は3000億円だという。

 これ以上の詳細は不明だ。だが、とりあえず理解できるのは、西武が土地などを直接ヨドバシに売っていれば、西武にはもっと多額のキャッシュが入ったはずだということだ。だが、実際はそこに外資が介在しなくては取引は成立しなかった。何故ならば、日本企業同士の取引であれば、そこに労働組合による雇用維持だとか、駅前の景観を変えるなといった地域の声など、売買の当事者以外の利害が交錯して動きが取れなくなるからだ。外資は、良く言われるハイエナとして暴利を貪っているのではなく、むしろ社会を前に進めるためには必要な存在として取引に関わっている。

 このように外資が介在しないと社会が回らないという現象は、日本の様々な局面に見られる。出版社との直接取引による書籍の通信販売というビジネスモデルに加えて、大規模な生活用品から電化製品の通販ではアマゾンという外資が日本市場を席巻しているように見える。だが、このように便利な電子商取引を仮に日本企業が始めていたとしたら、既存の流通業界に潰されていただろう。楽天が唯一成功しているのは、既存の小売店を電子商取引に誘導することで新旧の共存を図ったからに過ぎない。

 テック系に至っては、MP3から始まったiPod/iPhone のビジネスは日本の場合、その初期の音声ファイルの扱いは著作権法に抵触するので不可能であった。検索エンジンも、現在の対話型AIも同じである。それどころか、ファイル転送ソフトを開発した技術者や、ネットのビジネスから電波メディアの買収を目指した起業家は逮捕された。結果として、日本という巨大で知的な市場は結局はGAFAの力を借りなくてはDXを進めることができなかったのである。

 簡単に整理するのであれば、既得権益が時代の変化に抵抗する「反発力」が、時代を前に進めようとする「推進力」を負かしてしまうという力関係が国内にはあるということだ。そこに外資が介在すると、国の恥だと思うのか、それとも契約社会の勢いに押されて主張を引っ込めるためなのか、話が先に進みやすいということなのであろう。著作権法の絡みに至っては、フェアユースという公益のための利用も、新しいデバイスやフォーマットが立ち上がる際に通過する法律上のグレーゾーンも、日本では「違法イコール犯罪」ということになる。これではイノベーションもあったものではない。

 こうしてリストアップしてみると、明治維新から155年を経た「日本の社会」というものが、全面的なオーバーホールを必要としているのを感じる。ビジネスにおいては、関係性よりも契約と論理を優先すべきだ。法律とその運用に関しては、極端な形式主義、条文主義を改めてコモンセンス(社会常識)を上位概念としつつ現実的な判断を可能にすべきだ。そのような改革の端緒は見えてきたが、速度は絶望的に遅い。旧世代の退場を待って改革したのでは、その前に国が滅びてしまう。

 ここ10年ぐらいのネット世論を見ていると、海外組の忠告に対しては「海外では」という高飛車な態度が「出羽守」だとして嫌われている。だが、事態がここまで深刻化した現在では、堂々と出羽守としての口上を申し立てることこそ在外邦人の責務と考えるのだが、読者の皆さんはいかがであろうか。

(れいぜい・あきひこ/作家・プリンストン在住)