戦後80年を迎える中、日本では石破総理が「戦後80年談話」を発出することへの風当たりが強い。自民党内の、いわゆる保守派が反対しているそうで、もしも「総理が強引に発出する」と党が割れてしまうという声もあるという。反対論の中心は「謝罪外交」への違和感のようだ。日本が戦争に関する謝罪を続けるのであれば、いつまでも周辺国が日本を見下げることとなり、日本としては国益に反する利敵行為だという、これが「謝罪外交反対論」の中核のようだ。
確かにここへ来て「謝罪外交」の意味が薄れ、弊害が強くなっているのは事実だと思う。一番の問題は、世代交代である。第二次大戦に至る日本のアジアにおける戦争が大きな災厄を生んだのは否定できない事実だとしても、加害側、被害側ともに当事者世代はほぼ残っていない。仮に1945年に20歳であった人々を当事者の下限だとすると、今回戦後80年を迎える中では100歳になっているからだ。
現在の人口の中核を担う世代は、日本にしてもアジア諸国にしても戦争当事者の子ではなく、孫世代である。ほとんど無関係と言っていい世代において、一方が謝罪を要求し、一方が謝罪をするというのは、どこかに無理を生じる。特に「生まれながらにして」謝罪を強いられる日本の状況は、理不尽だと思い始めたら後戻りは難しい。
また、謝罪というのは心理的、経済的に余裕があれば比較的容易だが、そうでなくては辛いという特性がある。日本が高度成長を駆け上がり、バブル景気に酔っていた時代においては、謝罪の主体になることには抵抗感は薄かった。それどころか、倫理的な高揚感を伴っていたのである。けれども、現在の世相は当時とは全く異なる。むしろ謝罪に積極的になるグループは、物理的にも心理的にも余裕のある「持てる側」として目立ってしまう時代でもある。
最も重要なのは、謝罪というのは極めて精神的な態度の問題であり、惰性的な言葉では伝わらないということだ。オバマ大統領が仲介した日韓合意の際に、亡くなった安倍総理が韓国に対して謝罪を述べた。その際に韓国側からは、「本音は右派である安倍氏の謝罪は胸に響かない」という反発が出た。国を代表した総理の公式発言に対する姿勢としては非礼とも思うが、謝罪という精神論の場合はこのように「伝わらない」場合があるということは残念ながら事実である。
では、日本はこうした「謝罪外交」を卒業できるのであろうか?これはそう簡単ではない。説明もなく謝罪を停止するとか、単に保守派の勢力が増したから止めますというのでは国益は守れない。第二次大戦は人類にとって最後の世界大戦だという前提に立てば、これを最後まで戦ったにもかかわらず、国体を護持した日本は、半永久的に恭順国家という位置づけから動けないからだ。
また、大韓民国にしても中華人民共和国にしても、建国の原点に戦前の日本が深く関与している以上は、日本との過去を忘れることは不可能である。中でもアメリカの場合は、軍国日本との戦いは建国以来最大の事件である。二度の世界大戦の欧州戦線参加はあくまで援軍派遣だったが、対日戦というのは唯一にして最大の総力戦だったからだ。
どうすればいいのかというと、謝罪の代わりにまず追悼を行うべきだ。謝罪は一方的だが、追悼は共同作業になる。とりあえず、故安倍晋三総理とバラク・オバマ大統領の間では、広島と真珠湾において相互献花外交の完結を見た。同じように、日韓や日中における共同追悼の作業が求められる。これは個人的な意見だが、追悼というのは政治的行為ではなく、人間性の純粋な部分で行うものであるから、総理大臣ではなく天皇陛下に行っていただくのが良いと思う。日米の共同追悼の儀式も、例えば沖縄で、長崎で、更に太平洋の各地で陛下と大統領により厳かに続けることができればその意義は深いであろう。
もう一つは批判である。自分は戦争の当事者世代ではないので謝罪の主体にはならない、そのような世代が日本の大半になっているが、だからといって過去を肯定しているのではない。また現在形でアジアをもう一度侵略しようなどと考えている人間は皆無であろう。日本国内においては自明なことだが、態度として示さねば伝わるものも伝わらない。日本は謝罪をやめて軍国主義や侵略の正当化を進めていると思われたら、軍拡の口実にされたり、最悪の場合は日中離反、日韓離反の工作に引っかかるとか、外交孤立の状態に追い込まれることもあり得る。
これを避けるために必要なのは、歴史認識における過去への批判を明確にすることだ。日露戦争が防衛戦争であったことは間違いないが、戦後の朝鮮半島のビジョンなきまま戦闘に突入した時点から先の朝鮮半島政策はどう考えても批判の対象で良いのではないか。中国政策に関しても、第一次大戦後に21カ条要求でドイツ利権の返還を拒んだ以降は、やはり批判が主となろう。対米戦については、その全てが戦略的な間違いという批判をすることが、既に両国の暗黙の公式理解となっているが、こちらも変更の必要は感じない。
改めて戦後80年の今年、惰性的な謝罪外交を見直して、真摯な共同追悼に冷静な歴史批判を加えるという姿勢への転換を提言したいと思う。もしかしたら「保守派」という概念からは、過去への批判というのも「先人の犠牲を貶めるもの」だとして、嫌悪の対象になるのかもしれない。だが、謝罪も共同追悼も批判もしないということでは、現在の日米安保体制が「日本の軍国主義を封じ込める瓶のフタ」ではなくなっている中では、日本孤立策の口実を与えるだけだ。その意味で「保守」とは何かということも、厳しく問われる時代となった。
(れいぜい・あきひこ/作家・プリンストン在住)

