ランチのおかずは、街ゆく人たち

ニューヨークの魔法 ⑳
岡田光世

 先生はもうすぐ、九十歳になろうとしていた。元気な声で出てくれますように。祈る思いで、数年ぶりに電話する。

 岡田さん? ああ、うれしい。どこにいるの? 今日、お会いできる?

 先生はいつものように日本語で、本当にうれしそうに、そう言った。先生がニューヨークで日本語を話す相手は私だけなのに、終戦まで日本の統治下の韓国で日本語で教育を受けてきたから、忘れることはない。

 私たちは三十年近く前に知り合った。新聞の取材で、先生の学校を訪ねた。先生は韓国でずっと教師をしていたが、三十代のとき、ニューヨークにやってきた。

 アメリカの学校に通う韓国系の子どもたちに、韓国の言葉と文化を身につけ、忘れないでほしいと、四十代の時、学校を作った。設立日は、一九七三年五月五日、韓国でも子どもの日だ。授業は毎週土曜日にある。

 今も現役で、朝、誰よりも早く学校へ行き、放課後、誰よりも遅く学校を出る。

 先生の英語名は、グレイス(Grace)。何年か前にアメリカ国籍を取ったけれど、韓国出身だから本名は許昞烈(ホ・ビヨンリヨル)。私は、たまにグレイス、でもたいてい先生と呼ぶ。あんまり喜んでくれるので、その日は仕事と決めていたけれど、はい、先生、今日、お会いしましょう、と気づいたら答えていた。先生と会うときはいつもこうだ。

 では、メイシーズ(老舗デパート)前の小さな広場で、午後一時に。

 万が一、会えなかったときのために。先生、携帯電話を持っていますか。

 会えないこと、ないでしょう? ずっとそこで待ってる。ああ、うれしい。

 広場のテーブルにすわって待っていると、先生が私を見つけた。

 ぐるりと一周回って、向こうからあなたを見て、すぐにわかったの。

 この東側はコリアンタウンと呼ばれ、韓国系の飲食店やスーパーが軒を並べ、ハングルがあふれる。先生は逆の南西へ向かって、足早に歩き始める。

 ランチどきで人通りが多く、横に並んで歩けないので、私はすぐ後ろをついていく。 先生は歩くのがとても速い。

 先生は何も言わずに、街でよく見かけるサンドイッチのチェーン店に入る。

 どこで食べようかと考えたけれど、あなたと会うときは、いつも韓国料理でしょう?  ここの店は人気があって、 every single corner にあるの。

 日本語で話しているのに、突然、英語や韓国語が交じるので、私は混乱する。

 先生はいつも、私がお金を払うことを頑なに拒む。店に入ると、先生はアボカドサンドをさっと選ぶ。私があれこれ迷っていると、大きなサンドイッチを指差して、これにしなさい、と先生っぽい口調で言う。やや強い言い方なのに、私にはとてもかわいく聞こえる。

 サーモンサンドが美味しそうだったのでそれを手にすると、もっと大きなサンドイッチを指差して、怒ったように言う。そんなの買わないで、これにしなさい。

 でも、これが食べたい、と五回ほど主張すると、先生は苦笑し、しぶしぶあきらめる。 大きくて、もっと高いサンドイッチを食べさせたい、と思ってくれているのだろう。

 I have a question.

 質問があるの、と突然、英語で先生が聞く。

 どうしておんなじ? 変わってない。そう。年寄りみたいじゃないし。最初に会った頃と同じ。そのまま、 かわいらしいし。

 そう言い、にこにこしながら、私の頰をなでる。先生こそ変わっていないのに。

 先生と並んで窓に向かってすわり、サンドイッチをほおばりながら、通りを歩く人たちを眺めている。

 先生はおしゃべりに夢中で、サンドイッチはほとんど手つかずだ。

 こういうところで食べるのが好き。こういう食べ物も好き。都会にいるのに、田舎みたい、と先生が言う。

 都会にいるのに、このカジュアルさ、庶民のぬくもりを感じられる雰囲気が、好きなのだろう。そう。だから私は、先生が好き。

 そして、先生は続ける。

 ニューヨークは人が個性的で、生き生きしているでしょう。どうやってそんなことを思いついた? どこからこういう発想が生まれる? と思うことが、しょっちゅうある。

 That’s the way we live in New York.

 それが、ニューヨーク・スタイル。

 私のおかずは、街ゆく人たち。こうして眺めているだけで、おなかがいっぱい。いろいろなおかずがあって、どれも美味しいの。

 ああ、だから私は、先生が大好きなのだ。

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