春近き冬のころ

常盤新平 ニューヨーカー三昧 I LOVE NEW YORKER 8

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 朝から晴れてはいるが、外は寒い。春は名のみの、春近き冬のころだ。ウィンターセットというのだそうだ。

 新宿の紀伊國屋書店に行って、「ニューヨーカー」を二、三号まとめて買った。ひところは予約購読していたのであるが、購読期限が切れて、銀座の洋書店イエナで買いもとめるようになった。イエナが閉店して、新宿に行くようになった。

 最新号を手にとるたびに、ニューヨークの街角で水曜日の朝にホテルを出て、ニューススタンドでこの週刊誌を買い、コーヒーショップで朝めしを食べたのを思い出した。「ニューヨーカー」を発行する場所でこの週刊誌を買えるのが嬉しかった。

 いまやNYと私をつないでいるのは「ニューヨーカー」だけである。NYへ出かけるのも夢のまた夢になってしまった。

 朝食はいつも同じだ。朝家では七時に起きると、水をコップ一杯飲む。それから野菜ジュースを一杯。湯を沸かしてコーヒーを淹れる。

 毎朝ポットに、五、六杯つくる。味は濃くないから、いわば番茶がわり。コーヒーが好きになったのは、ニューヨークのコーヒーが自分のからだに合ったからだろう。

 コーヒーの味がいまだにわからない。が、外出したとき喫茶店で注文するのはコーヒーときまっている。夏でもホットコーヒーで、「ブレンドですか」と訊かれると、「コーヒー」と答える。コーヒーはコーヒーだ。

 子どものころはコーヒーという名前は知っていても、飲んでみたことはなかった。家庭にはない異国の飲物だった。

 父も母もおそらく一生コーヒーを味わってみたことはなかったろう。私が喫茶店らしきところでいとこ(同年)におごってもらったのは高校二年ごろのことだ。まずいと思った。コーヒーの味に馴れたのは大学二、三年になってなってからで、喫茶店が好きになった。

 どの喫茶店にもかわいらしい女の子がいて、何人かのクラスメートといっしょにしばしば行った。彼女に話しかける度胸はなく、彼女の動きを眺めるのにとどまった。

 東北の仙台に育った私は、東京にはきれいな女の子がいると思ったものだ。喫茶店にそんなウェイトレスが集まっていた。

 私は英文科の生徒で、将来はアメリカ文学を勉強するつもりでいたが、遊んでばかりいた。もっぱら麻雀やパチンコに時間をつぶした。

 安いところを狙って下宿を転々とした。高田馬場にはじまって、吉祥寺や杉並区大宮前、最後は父の知り合いの倉庫で、その中の八畳の和室に落ちついた。そこは下谷の竹町(現在の台東区)で、夜の九時ごろになると近くのパチンコ屋から「蛍の光」がうらがなしく流れてきた。

 生活はアメリカとはなんの関係もなかった。本をあまり読まなかったし、辞書もコンサイス英和と明解国語辞典しかなかった。ラテン語訳を勉強している長野出身のクラスメートがいたけれども、彼は結核になって在学中に亡くなった。

 二十四歳のころ、ペーパーバックで「愛と怖れの物語」というアンソロジーを洋書店のイエナで買い、そのなかで一番短い短編を読んだ。それがアーウィン・ショーの「夏服を着た女たち」である。いまなら「サマードレスの女たち」と訳すところだろう。

 この短編をいつか自分の手で訳してみたいと思った。それは十五年後に実現した。ショーはのちにベストセラーをつぎつぎに書いたが、通俗作家といわれて、本人もくさっていた。しかし、私にとってアメリカ文学はアーウィン・ショーしかいなかった。そのことが幸運でもあり不運でもあった。幸運を喜ぶべきだ。

 ニューヨークを舞台にしたショーの作品は都会小説ですごくしゃれている。(2009年3月21日号掲載)

(写真)朝日差し込むグランドセントラル駅(2009年3月13日) Photo Ryoichi Miura


常盤新平(ときわしんぺい、1931年〜2013年)=作家、翻訳家。岩手県水沢市(現・奥州市)生まれ。早稲田大学文学部英文科卒。同大学院修了。早川書房に入社し、『ハヤカワ・ミステリ・マガジン』の編集長を経てフリーの文筆生活に入る。86年に初の自伝的小説『遠いアメリカ』で第96回直木賞受賞。本紙「週刊NY生活」に2007年から2010年まで約3年余りコラム「ニューヨーカー三昧」に24作品を書き下ろし連載。13年『私の「ニューヨーカー」グラフィティ』(幻戯書房)に収録。本紙ではその中から12作品を復刻連載します。