名前と顔の一致求めて
写真家・井上博行が撮影
2025年11月、NY日系人会(JAA)ホールにニューヨーク日系1世のモノクロのポートレート53点が並んだ。100年ほど前に渡米した人々で、撮影されたのは約45年前だから、ほとんどが80歳以上。人生の年輪とでも言おうか、みな何ともいい表情だ。撮影時の聞き書きも一部公開され、起業、留学、結婚、密航、冒険などの渡米理由、新天地での苦難や第二次世界大戦中の差別、敗戦国となった母国への思い、終の棲家となるNYへの愛が、話し口調で生き生きと活字となって蘇る。この紆余曲折の人生譚がまた面白い。ところが「11人しか名前と顔が一致していない」というのを聞いて何とも残念な気持ちになった。さらに多くの人を一致させようと作業を進めるJAAの取り組みを取材した。(小味かおる、取材協力:野田美知代さん、竹田あけみさん、青野栄子さん、横山由香さん)

撮影したのは、宮崎県出身の写真家・井上博行さん(1951〜2024)。日本と英国で活動後、1978年から約5年はNYを拠点に芸術的な写真を中心として活躍していた。たまたま日系1世と接したことで、グラフィックデザイナーの斎藤央火さんとふたりで「パイオニアともいえる方々の記憶を残そう」と、新移民法(アジアからの移民を全面的に禁止する条項あり)が交付された1924年以前に渡米した日本人を約1年余かけて訪ね歩き、ニューヨーク(JAAと総領事館で2回)と東京で写真展を開いた。
それから約40年、井上さんのスタジオに眠っていた写真が再び脚光を浴びた。今回の写真展に尽力したアーティストの竹田あけみさんはこう話す。「5年ほど前、博行さんの一世写真展の資料を妻の千恵さんからもらって、強く興味を持っていたのですが、昨年博行さんが亡くなって…」。NYで写真展をしたいと、JAA事務局長の野田美知代 さんに相談し、写真60点と聞き書きノートなどがJAAに寄贈されることになった。
竹田さんは、日頃から青野栄子さんとふたりでJAAの収蔵庫で週1回、アーカイブのボランティア作業をしている。竹田さんが8月の帰国時に聞き書きノートを持ち帰り、写真展までの約2か月、青野さんとふたりで手書きメモのデジタル化に集中した。音声を文字化するアプリを使って「話した口調そのまま」のメモを読み上げて活字にしたという。展示のために英訳も用意した。「井上さんの手腕もあるのでしょうが、本当に表情がいい。苦難を乗り越えてこういう顔になるのかと思いました」と青野さん、「この仕事を通じて、1924年の法律について知りました」と竹田さん。
JAAに1989年から勤務する野田さんは「私が来る前のことで、当時のNY日系人の記録が極めて少なく、この写真と聞き書きはとても貴重」と資料的価値を力説する。「ニューヨーク日本人歴史デジタル博物館」の学芸員・横山由香さんは「戦時中はNYの日系人がエリス島に集められたという記録や写真があり、今回の聞き書きにもそれについて話している方がいて、実際に語られた歴史としての価値がある。また、華やかなファッション写真を撮影していた井上さんが、どうして彼らに興味を持ったのか、そのことも非常に興味深い」と話す。
残念ながら、顔写真とメモされた名前を揃える作業は、展示後は頓挫した状態だという。野田さんは「展示の前に、JAA会員、仏教会や日米合同教会の方々に呼びかけ、10人わかった。しかし、独身の方もいたり、子供たちがNYを離れ米国内外で生活をしていたりと、顔写真と名前を一致させるのは難しい」とため息を漏らす。竹田さんによると、「残された名前リストは62人分と聞き書きした人数より多く、肖像作品は60点の寄付のうち重複を除いて53点と、謎解きが多い」とのこと。展示を通じて作業が進むことが期待されたが、撮影から約45年も経った今となっては、顔写真と聞き書きの一致は困難を極めている。
先人の足跡に続いて自分たちが居る。どの人が何を語ったのか、生きた証をより正確に記録として残したい。一人でも多くの目に留まれば…。JAAは、今後はロサンゼルスの日系人博物館など全米組織に相談したり、ネガに何か記されていないか千恵さんに確認を依頼したりして、一致させる作業を進めていくという。「ニューヨーク日本人歴史デジタル博物館」としても「ある程度まとまった形での展示を将来的には検討したい」と横山さんは話している。
取材を終えて
井上さんの写真を「日系一世の群像」として捉えれば、一人ひとりの名前が判明しなくてもアート作品としての価値があるのかもしれない。しかし、まるで隣にいるような話し口調そのままの聞き書きを読むにつけ、日系1世の人生が語られた表情と証言を「貝合わせ」のように一致させ、被写体のみなさんだけでなく取材した井上さんらがNYに生きた証を明確な形で残して、次世代に伝えていきたいと、強く感じた。手がかりや効果的な方法があれば、JAA(電話212・840・6942)まで。
名前と聞き書きが一致した5人 (聞き書き録から抜粋、一部編集)

清水逸平さん 歯科技工士
1899年静岡県生まれ、パリとロンドンの大使館に各3年ずつ勤務後、1925年NYに移住。
政府の役人が来て、戦争になったからここを閉めなきゃいけないと仕事場のドアに張り紙をしましたよ。次の知らせがあるまではここに来ちゃいけないと鍵まで持って行っちゃったんですよ。12月24日に役人が来て、クリスマスプレゼントがあると言うんですよ。今日から開けていいって。(中略)辛かった様なことは一つもないですね。第一、一度も病気をしたことがなかったからいつも幸福でしたよ。そして戦争が始まった時も何もなかったし、長女が大学を出てすぐ死んだことが一番つらかった。そりゃあ、こっちの方が暮らしやすいですよ。日本の面倒なことは、親類、友人たちですよ。お互いみんなとてもよくやってくれるでしょう。あれが困るんですよ。(中略)NYは好きですね。 慣れちゃったし、呑気だからでしょうね。(中略)わしゃー、ニコンを持ってたんですけど泥棒が入って取っちまった。そしてキャノンを買ったんですよ。ムービーカメラの2個も持ってたんだけど、今度はそのカメラもやられたんですよ。

岸はるさん ランプシェード製造
1904年東京品川区生まれ、18歳で結婚して翌年の23年、夫の起業に伴いNYに移住。
大恐慌にひっかかって倒れてしまった。母から手紙が来て鍋釜は支度しておくから 帰ってきなさいと。でも(中略)そのままアメリカにいることにしました。だからできることは何でもやりましたね。子供がいるから。(中略)1962年に帰ったの。仲良くしてもらいたいと思ったけど自分の兄弟でさえそらぞららしくてあてがはずれた。(中略)何もかも変わっちゃって、私の故郷はないです。自分が歩いた亀の子橋へ行って、そんなものはないし、少しばかり寄付しようと思って行った小学校もなくなっちゃった。都レストランのビルディングのオーナーがとてもいい人で、お前は日本人だけどお前が悪くて戦争をやるんじゃないと、出て行けないとも言わないし、みんなプロテクトしてくれた。だから戦争中でも店を開けた。(職業名は、中西泰子著「母国は遠く/ニューヨークに生きた一世」より)

ハリー・ヨークさん 俳優
生年・出身地不明。16歳ぐらいで横浜から船に乗り込み、欧州を回り、1925年渡米。
アメリカに来てやらない事は無いぐらいなんでもやった。(中略)今から57年前の私がレストランの皿洗いで満足してたらまだ皿洗い。ところが希望と野心を持っていた。地下鉄で寝たりパークで寝たり街のベンチで寝ててバケツで水をかけられたこともある。23歳ぐらいの頃ブロードウエーを歩いていたら(中略)スカウトされた。言うのはなんだがスターだった。役なんかまず私のところへ来て、私がいやだと言ったら他をあたった。戦争の頃は、ホワイトハウスで働きミセス・ルーズベルトにつかえた。(中略)ミセス・ルーズベルトが戦地に送ってくれるな、あの小さな男がかわいそうだと。エンターテイナーに逆戻りして(中略)戦争中、アメリカの中を自由にまわれた日本人 は、私ひとりでは。

綾部たかさん
1900年静岡県生まれ。19年シアトル移住。離婚、帰国を経て、29年に単身留学で再渡米。
結婚してきたんですけど、彼は先に私は後で一人で来ました。大阪商船でその当時では大きくて1万トン位だったでしょう。彼はシアトルでファーマーズマーケットとして、日本人農民の野菜果物を売っていましたよ。(中略)お金を目的として来ている人が多いでしょ。だからできるだけ倹約してそしてお金を貯めて日本に帰ろうとしたしていた人が多かったですよ。(中略)1926年に日本に帰ってね、(中略)27年に再びアメリカへ、その時は再び日本に帰ろうと思わなかった。無理矢理学生ビザでワシントン大学には入ったけれど(中略)イーストに行きたいと思ったんですけれど(中略)うまくバケーションを利用してシカゴ大学に入った。29年にシカゴの移民局で永住権をもらって38年にNYに行きました。当時のシカゴには700人から800人いましたが、日本人問題が起こって、多くの日本人が帰り300人ぐらいになりました。その大部分は大学生でした。シカゴでは勉強する以外ありませんでした。

赤松三郎さん 日米合同教会牧師
1905年広島県生まれ、23年高校留学で渡米、34年に神学校とコロンビア大学入学のためNYへ移住。「3つの教会を合同させるのに11年かかった」。
日本人が排斥されてるのを見て癪に触って、その救済問題を考えたとき牧師になろうと思った。(中略) 戦争前に捕まってエリス島に送られた。3人の有力市民人ジャッジがいろんなことを質問した。その時に私は今エリス島に米国の健全な精神である民主主義に対して不信を抱いている人がたくさんいる。何故かと言うと彼らには帰化権が与えられていない。もしアメリカが海外で民主主義のために戦っているのなら、国内において実施すべきだ。アメリカが日本人、支那人、朝鮮人たちに帰化権を与えたら…と言って退いた。アメリカは偉いね。理屈にあったことを言えば認めてくれる。

