ハドソン・ストリートのあたり

常盤新平 ニューヨーカー三昧 I LOVE NEW YORKER 5

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 そろいのコーヒーカップがふた組ある。ハドソン・ストリートの瀬戸物屋で買った安物だ。カップのひとつはひびがはいっているが、捨てるにしのびなくて、いまだに朝は女房とそれでコーヒーを飲んでいる。

 ハドソン・ストリートをどうして知ったのかもうおぼえていないが、たぶんヴィレッジから歩いてきたのだろう。五番街や六番街とちがって人通りと車の往来も少なくのんびりとして、さびれているようにも見えた。

 瀬戸物屋があって、店先にセールのものが並んでいた。飲み口のふちに細い線のはいったコーヒーカップがひと組二ドルか三ドルだったので、土産にしようと買った。

 ハドソン・ストリートで見つけたカップでコーヒーを飲むのも悪くないと思ったのだ。コーヒーは自分で淹れる。コーヒーを淹れるのも紙の濾過紙ができて簡単になった。

 洗いものをしているときに、食器を落としてよく割ってしまったが、コーヒーカップだけは無事だった。大事に扱ったわけでなく、カップそのものが丈夫だったのだろう。そのうちにカップのひとつにひびがはいった。でも飲むのに差しつかえなかった。

 コーヒーを好きになったのはアメリカに行ってからだ。東京のコーヒーは濃くて一杯でもうたくさんだったが、ニューヨークのコーヒーは二杯か三杯は飲める。 

 コーヒーショップでもポットを持った中年のウェイトレスがテーブルをまわって、注ぎたしてくれる。ストレートで飲むのが嬉しかった。アメリカのコーヒーが好きになった。

 前後10年ほどニュージャージー州に滞在した妻は私とちがって濃い味のコーヒーを好む。私が淹れたのを「コーヒー水」だと言う。

 再びニューヨークを訪れたとき、同じ瀬戸物屋で線の色のちがうコーヒーカップをひと組買った。これもぶあつい頑丈そうなもので、以前に買ったのと交互に使っている。愛着がある。

 ふた組のコーヒーカップは思い出深い品だ。

 五番街で高価なライターや腕時計を買ったのだが、みな人にやってしまった。執着心がないと言えば聞こえがいいけれども、コレクションの趣味がない。

 コーヒーカップはハドソン・ストリートを思い出させてくれる。あの瀬戸物屋の近くに1850年代創業というホワイト・ホース・タヴァーンがあり、夕方近くこの店でビールを飲みながら、ハンバーガーを食った。ハンバーガーがうまかったのをおぼえている。

 この店にはディラン・トーマスのような詩人や多くの文人や画家がやってきたという。ニューヨークのガイドブックにはかならず載っている店の一軒だ。

 お酒が好きだから、ホワイト・ホース・タヴァーンに行ってみたのだが、この街にある古い店ー酒場ーを見ておきたかったからだ。カウンターがあまりに長いのに驚いた。

 ニューヨークで一番の楽しみは古本屋をひやかすことだった。ヴィレッジには何軒かあったが、それらを訪れるたびに閉店して淋しいかぎりだった。東京でも古本屋と喫茶店は数が減っている。

 これは個人の力ではやっていけなくなったからだ。経営者も年をとって、あとを継ぐ人がいない。神田神保町だって様変わりしつつある。老舗は健在だが、ひと月前にあった古書店がスポーツ用品店に変わっていたりする。

 最後にハドソン・ストリートを歩いたのはもう10年も昔のことだ。コーヒーカップを買った瀬戸物屋はなくなっていた。現在のハドソン・ストリートについてはまったく知らない。

 知人がこの界隈に住んでいたが、消息を聞かない。写真家で、優雅に暮らしていたが、あるいは帰国したのかもしれない。十年前、二十年前に帰りたいと思うが、それはかなわぬことだ。そのころに私が愛読した作家たちやジャーナリストたちはみんな老いてしまって、その後どうしているか知る由もない。(2008年7月12日号掲載)

(写真)昼下がりのホワイト・ホース・タヴァーンで微睡む客たち(加藤麻美撮影)


常盤新平(ときわしんぺい、1931年〜2013年)=作家、翻訳家。岩手県水沢市(現・奥州市)生まれ。早稲田大学文学部英文科卒。同大学院修了。早川書房に入社し、『ハヤカワ・ミステリ・マガジン』の編集長を経てフリーの文筆生活に入る。アメリカの現代文学やニュージャーナリズムの作品を翻訳して日本に紹介する翻訳家であるとともに、エッセイスト、作家としても知られた。86年に初の自伝的小説『遠いアメリカ』で第96回直木賞受賞。本紙「週刊NY生活」に2007年から2010年まで約3年余りコラム「ニューヨーカー三昧」に24作品を書き下ろし連載。13年『私の「ニューヨーカー」グラフィティ』(幻戯書房)に収録。本紙ではその中から12作品を復刻連載します。