過疎化に耐えられない地方をどうする

 日本では地方の過疎化がより深刻化している。例えば、全国的にバス運転手の不足が問題となっており、続々とバスの便数削減やバス会社が丸ごと廃業という事例も出てきた。このバスの問題は、大都市部でも同じような問題に直面していることもあり、過疎化の問題としてはやや特殊な部類に入る。だが、交通手段が行き詰まるとコミュニティとしては成立しないわけで、過疎化にとって深刻な問題であることは間違いない。

 バスと並んで、切迫しているのが水道の供給だ。水道管の耐用年数は日本の場合、法令で40年と定められている。だが、多くの水道管が老朽化しており、100年近く運用されているものも多い。物理的な耐用年数としては、鋳鉄製で80年、塩ビ製で60年が限界と言われているが、全国で更新は遅れている。そのために水道管が破裂して、断水が長期化するなどの事故が増えてきた。

 ところが、日本の場合は水道の「民営化」には世論の強い反対があって進んでいない。アメリカの場合は、民営化と広域化が進むことで、コスト構造が炙り出されて持続可能な「受益者負担」が成立しているが、小規模な日本の水道事業にはそのまま応用はできない。そんな中で、一つの現実的な方策としては、自治体の枠組みを超えた水道事業の広域化が考えられる。この公共水道の広域化というのは、ほとんどこれが唯一の現実策と思われるが、改革のスピードは遅い。

 アメリカもアパラチアから大平原、更に西部山岳地帯と巨大な分散集落地帯があるが、多くの場合は大規模農場やエネルギー産業など「経済が回る」構造がある。だが、日本では引退世代が山間部で暮らす『ポツンと一軒家』が数多く残っていて、これが多くの場合に行政コストを押し上げている。

 この問題を解決するために、コンパクトシティ化というスローガンが叫ばれたことがあった。例えば青森県の弘前市、富山県の富山市などである。山間部に分散した集落から人口を10万規模の都市圏に集約して、居住と福祉サービスの距離を縮め、生活の質を維持しながら人口を集約するという発想だ。その裏には、分散集落と都市をつなぐ道路に関して、これ以上「冬場の除雪を行う費用もなければ人手もない」という現実があった。

 だが、基本的に『ポツン』という物件は評価すればほとんど無価値であって、等価交換で都市部に移ってもらうのは不可能だ。また、そこに助成を行って無理に集約してしまうと、駅前のシャッター通りなどの担保価値が下がって地方金融が崩壊する。そんな中で、本格的な「コンパクトシティ」は事例として実現していない。そこで、多くの地方自治体では、除雪や水道、電気など必要な行政とインフラのサービスを続けながら、住民が更に高齢化して「山を降りる」ことで、集落が一つ一つ歴史を閉じるのを待つしかないのが現状だ。

 だが、地方自治体の財務状況悪化や人手不足が加速しており、このように「なんとか維持しつつ、集落の自然減を待つ」というアプローチは破綻しつつあると言っていい。東京の中央官庁からは、通院や買い物は自動運転でカバーする、とか、水道管の更新が無理ならタンク車で給水するなどという「対策」が提案されているが、解決策としては現実的とは言えない。

 その一方で、人口の集約を加速せよという議論も増えてきた。維持できない行政サービスは止めて、多くの『ポツン』の住人は里に降りてもらう。これに更なる町村合併を進めて人口を集約してすべてを効率化するという発想だ。だが、その場合は巨大な耕作放棄地の発生による植生の荒廃、人獣の力関係が更に逆転することで脅威が都市部に及ぶなど、新たな問題が出てくる。離島や沿海部では、極端な人口減は国境防衛への問題になる。総合的な対策は待ったなしであり、地方創生などという美辞麗句で対応できる段階は過ぎたと言える。

 水道民営化の議論もそうだが、安易な改革論者はすぐにアメリカの真似をしたがるが、それが日本には必ずしも合わずに事態を悪化させる危険もある。むしろ、アメリカの小規模な町村を丁寧に見れば、独立採算制を活かした成功例で、日本の参考になるケースもあるかもしれない。いずれにしても、日本の過疎問題は私達にとっても、他人事ではない。(れいぜい・あきひこ/作家・プリンストン在住)

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