あの日の散歩道 ニューヨークの魔法

 今朝も空は真っ青で、ハドソン川の川面には太陽の光が反射し、輝いている。ヨットがゆったりと行き来する。

 こんな気持ちのよい日に、部屋で執筆? 神様がくれた最高のプレゼントではないか。

 そうだ、フェリーに乗ろう。

 ガバナーズ島に行かないかと友人夫婦に誘われたが、仕事があると断った。確か、十時発のフェリーに乗ると言っていた。運がよければ、会えるかもしれない。

 ガバナーズ島は、マンハッタン島南端のサウスフェリーからフェリーで五分ほどのところにある。ニューヨークがオランダ領からイギリス領になり、ガバナーズ島(英国植民地の総督の島)と呼ばれるようになった。独立戦争以降は、砦や基地の役割を果たしてきたが、今は夏の間、教育や遊びの場として市民に開放されている。 

 急いでアパートを飛び出し、走った。フェリー乗り場は、ワールドファイナンシャルセンターとは反対側の方角にある。

 近くのカフェでは、外のテーブルにすわって、三十代ほどの女性がひとり、コーヒーを飲みながら新聞を読んでいた。すみませんが、と声をかけ、サウスフェリーはここから歩ける距離かしら、と尋ねた。

 十分くらいよ。でも、今日は天気がいいから、ちょっと時間はかかるけど、もっと景色のいい道順はどう?

  女性が聞き返す。

  It’s a nice walk.

  歩いたら、気持ちいいわよ。

 いえ、早く行ける道順を教えて。遅れそうなの。

 あら。じゃあ、最短距離がいいの?

 そう言って、女性が笑った。

 そういえば昨日も、見知らぬ人に道を尋ねると、同じことを言われた。

 ずいぶん急いでいるみたいだね。ちょっと遠回りでよければ、気持ちのいい行き方があるよ。こんなに、すがすがしい日なんだから。

  It’s a nice walk.

  歩いたら、気持ちいいよ。

 そう言われて、これからはもう少しゆとりを持って、早めに家を出ようと思ったばかりだった。いずれにしても、歩く道。景色を楽しみながら、散策できるほうが、何倍も楽しいではないか。

 やっぱり、気が変わったわ。景色のいい道順を教えて。

 私がそう言うと、女性は笑った。

  There you go.

  そうでなくっちゃ。

 十時のフェリーに乗り遅れたら、次に来たのに、乗ればいい。

 右手にハドソン川を眺めながら、川沿いの遊歩道を歩いていく。マンハッタンと、ニュージャージー州やスタテン島を結ぶ通勤用のフェリーが、ゆったりと行き交う。右手の海に、自由の女神が立っている。海を眺めながら、女神に近づいていく。

 このあたりは、きれいですね。

 数日前に出会った車椅子の男性に、私がそう声をかけると、彼は答えた。

 そうだね、今は。でも、同時多発テロ事件のときは、地獄だった。

 二〇〇一年九月十一日のあの朝、高層ビルの窓から人々が身を投げた。地面に肉片が散らばった。コンクリートの破片や粉塵、窓から飛び散る書類が舞うなか、ビルや飛行機の残骸を避け、絶叫しながら、多くの人が川辺まで逃げ切った。

 いざというときには、川に飛び込む覚悟を決め、柵を越えて川の目の前に立ち並んでいた。私の友人も、川辺まで走り抜け、途方に暮れていた。やがて訪れたフェリーで、ニュージャージー州に逃れた。

 厳しい船の旅の果てに、ようやくアメリカにたどり着いた人々を、女神は迎え入れてきた。その女神のすぐそばで、二棟のマンハッタンの象徴は、沈むように崩れ落ちた。

 ニューヨークの人たちは大きな心の傷を負い、この界隈から遠ざかっていった。

 今、その川辺にはピンクと白のハマナスの花が咲き乱れ、ボランティアの人たちがしゃがんで手入れをしている。老若男女がジョギングしている。五、六歳の男の子がふたり、追いかけっこをしている。そんな風景を、ひとつひとつ記憶にとどめるように、私はゆっくりと川沿いを歩いていく。

 このエッセイは、「ニューヨークの魔法」シリーズ第4弾『ニューヨークの魔法のさんぽ』に収録されています。