「今こそ美術館に行こう」 

画家 千住 博

 私がニューヨークで生活を始めたのは1990年代だった。その頃はインターネットは全く普及していなかった。ホームページもなかったしユーチューブもない。そんな環境のなか、日本で海外の美術雑誌を待っていると、2か月遅れて洋書店に入る。これが世界の最新か、と頭に刻み込んでいる時には、すでに新しい動きや見たこともない新人が出ている。だから、新しい芸術を学びたい者は情報の中心地に自ら来るしかなかった。

 一昔前なら、それはパリだったろう。その当時は旅客機がないのだから一層大変だった。黒田清輝がパリで最新の「印象派」という美術運動に感化され、日本に船で大急ぎ帰って、藤田嗣治に教え、藤田がまたまた大急ぎで船でパリに渡った時、印象派は終わっていた。藤田が、黒田から指定された印象派向きの色彩豊かな絵の具の入った箱を床に叩き捨てて、そこからが自分の画業の始まりだった、といったのは有名な話だ。

 舞台はパリからニューヨークに移った。

 しかしコロナ禍で急速に変化が訪れた。ニューヨークのような都市は密の究極、と人々は知ることになる。

 そして都市なるものの本質、すなわち情報のやりとりは、急速にネットの中に移行する運命となる。

 だがAIやデジタルは計算速度を増した情報処理以外の何ものでもない。そしてパソコン画面に映し出される視覚とスピーカーからの聴覚だけでは人は生きていけない。人間の五感に対応できないからだ。従って、これから人はますます触覚的な体験価値を軸に文化を展開することになると思う。

 御存知の方も多いだろうが、ニューヨークには数多の美術館がある。東京都の2つの区くらいの区域に、メトロポリタン美術館を筆頭に、考えられないくらい優れたコレクションの美術館がひしめき合っている。これが私がニューヨークから離れられない最大の理由でもある。例えばフェルメールがニューヨークに何作あるだろうか。世界に30作弱しか現存しないといわれるなか、ニューヨークの美術館には8作が展示されている。日本に数作集まるだけで長蛇の列となるのはご存知のとおり。これはフェルメールだけの話ではない。

 3Dプリンターで表せない質感、アルゴリズムではじき出せない意外性、即興性、試行錯誤の痕跡、これらが人間のつくり出した芸術の本質だ。疫病や戦争などの不安感のなかで自らの命と同等の価値を認め、人々が必死に守り継いできたそれらの絵画、彫刻、工芸がこの地の美術館には数多く存在しているのだ。

 優れた芸術作品は、それぞれの時代背景のなか、世の中には何が足りなくて何が歪んでいたのかを指摘し、それを描いてきた。人類史上最悪といわれる疫病の後に科学の必然を告げたのがレオナルド・ダ・ビンチだったし、健康感の大切さを説いたのがミケランジェロだった。そして第一次大戦の暗い時代に、モネは日常に降り注ぐあふれる光を描き、ルノアールは暖かさに満ちた無垢の人々を描いた。

 先人たちが伝えてきた美術品の数々は、コロナ禍に苦しむ今日、私たちはどこから来たか、私たちは何者か、そして私たちはどこに行くのか、という人生の命題を教えてくれているに違いない。もし許せる状況にあれば、十分に注意を払って、年末年始にニューヨークの美術館を訪ねてみるのはどうだろう。