被爆者は語る

NY市内各所で追悼・平和集会

 核拡散防止条約(NPT)再検討会議が開かれているニューヨークで5日、広島原爆の日に合わせ、犠牲者を追悼する催しが市内各所であった。昼には、ニューヨーク日本総領事館が入居するビルの前のパーク街で市民集会が開かれた。広島県原爆被害者団体協議会の佐久間邦彦理事長が自らの被爆体験を語った。スピーチの内容は次の通り。

 皆様こんにちは、私は佐久間邦彦と申します。私は生後9か月の時、広島で被爆しました。私が被爆したのは爆心地から西方3キロメートルの己斐町でした。私の家は平家の木造家屋でした。裏側は山で私は爆心と反対側の縁側で寝ていました。母は洗濯をしていました。突然閃光が走り、近くに焼夷弾が落ちたのではないかと思って周囲を見たそうです。別に何も変わった様子もなく、あれ、でもと思って私を背負って避難する途中黒い雨に遭遇しました。避難所は負傷した人達がいました。しばらくして自宅に帰ると、家の壁は崩れ落ち、窓ガラスが壊れ散乱、屋根瓦も一部飛び散っていましたが、その後何とか住むことができました。ここまでは母から聞いた話です。私の家族は爆心地から離れていたところにいたのでなんとか生き残ることができたのです。当時広島市には35万人前後の人たちがいたと言われてますが、その年の末までには14万人前後の人たちが亡くなっています。たった1発の原爆のエネルギーは爆風、熱線、放射線となり広島市中心部は壊滅しました。生き残った人々もさまざまな形での原爆後遺症で苦しみ、その影響は今も続いています。各兵器は悪魔の兵器であり、絶対悪であり、非人道的なものであり、2度と使用されてはなりません。

「プーチン発言に驚き」
被団協の佐久間さん

 広島県原爆被害者団体協議会の佐久間邦彦理事長の被爆体験は次の通り。

     ◇

 私に記憶があるのは5歳か6歳の頃からです。当時よく扁桃腺が腫れ熱を出し、祖母に連れられ病院に行きました。私は栄養失調の中で育ちました。

 私は遠距離被爆なので原爆の影響は受けていないと思っていました。ところが11歳と12歳の時、2か月くらい続けて体調不良で学校を休みました。肝臓と腎臓を患い、ともに体がだるく、食欲がなくて子供ながらに死ぬのではないかと思いました。その後体調に不安を感じながらも中学、高校を終えて上京しましたが、被爆後20年あまり経ても被爆者に対する差別や偏見があることを感じ広島へ帰りました。

 私は現在、被爆者相談所で被爆に関する相談を受けています。その時必ず被爆当時のことを聞きます。相談者が数ある中で聞いていると私もそのような過酷で悲惨なところにいたのかと思うと、核兵器はなくさなければと考えるようになり、核兵器廃絶をめざす運動に参加するようになりました。

 ロシアのプーチン大統領は核兵器の使用を示唆しました。本当に驚きました。5核保有国へ核軍縮をせまり、NPT再検討会議が一歩でも核兵器廃絶をめざす会議になればと思います。(スピーチは日本語で行われ通訳が英訳した)

核廃絶を訴える

NY日本総領事館前で日米市民

 核拡散防止条約(NPT)再検討会議が開かれているニューヨークで5日、広島原爆の日に合わせ、犠牲者を追悼する催しが市内各所であった。昼には、ニューヨーク日本総領事館が入居するビルの前のパーク街で市民集会が開かれ、核廃絶と被爆者への追悼、原爆を日本に投下したことに対する米国市民からの謝罪が発表された=写真上=。集会では、楽器を演奏したり「ノーモアヒロシマ・ノーモアナガサキ」などと声を上げたりしながら、核廃絶を訴えた。

 日本総領事館前で集会をした理由について参加者は「日本が世界で唯一の被爆国であるにもかかわらず、米国の核の傘に守られ、NPTを批准していないことへの抗議の意味もある」と述べた。映画監督で平和活動家のアンソニー・ドノバンさんは「日本に大量殺戮兵器の原爆を落としたことを一アメリカ市民としてお詫びする」と謝罪の言葉を口にした。広島県原爆被害者団体協議会の佐久間邦彦理事長が自らの被爆体験を語った。

核兵器のない未来を

原爆投下時刻に鐘
第29回インターフェイス 平和の集いで追悼

スピーチする田上長崎市長(写真・三浦良一)

 宗派を超えて世界平和活動を行うNY平和ファウンデーション(中垣顕実会長)は5日午後6時から国連チャーチセンターで平和式典「第29回インターフェイス平和の集い=広島・長崎原爆犠牲者追悼(77周年)並びに平和祈念」を行なった。

 式典を通して、原爆、戦争の過去を振り返る中、再び同じ悲劇を起こさないよう、内外の平和を祈念し、すべての命を大切にする「核兵器のない」平和な社会の構築のメッセージを発信した。

 当日は、式典に長崎市の田上富久市長と日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の木戸季市事務局長(82)広島平和文化センターの小泉崇理事長ら約40人が参列。広島市長のメッセージをNY広島会会長の古本武司さんが代読した。このあと長崎の被爆者の木戸さんが自身の被爆体験を証言し、「核兵器は人々が生きた証をすべて奪ってしまった。人間らしく生きて死ぬことを実現するためには核兵器の廃絶しかない」と核兵器の非人道性を訴えた。

 パーフォーマンスは、オープニングを三線とボーカルのリノ・アイセ、ひろしま平和文化大使・原田真二、ソプラノ・服部愛生、歌舞伎役者・中村橋吾が「国連平和の鐘」をテーマにした演技、ダンサー・杉山奈穂子が華麗な舞いを披露した。最後に来場者たちはバーチャル広島原爆資料館ツアーを西前拓氏の解説で体験した。原爆投下時刻にあたる現地時間の午後7時15分を迎えると、田上市長と、小泉理事長、木戸事務局長が順番に鐘を鳴らし、原爆の犠牲者を追悼した。