出版は家内制手工業のワン&オンリーたれ

株式会社 早川書房代表取締役社長

早川 浩さん

 ハヤカワミステリーなど、日本で、SF小説とミステリー作品を数多く出版している早川書房二代目の社長だ。毎年春に開催される米国ミステリー作家協会主催のエドガーアランポーアワードの授賞式にコロナ禍を除いて過去50年毎年出席している。自身も1998年にエラリークイン賞を受賞していて今では主催者側も含めて最古参のうちだという。同社は元々、神田で祖父が航空機部品を軍事協力工場として製造していた早川製作所が東京大空襲でなくなり、戦争嫌いの父が、戦後、演劇雑誌出版社として興した会社だ。

 早川さんは、1964年、慶應義塾大学4年生の時に元陸上部の経験もあって東京五輪の外務省の公式通訳の試験に合格して採用され、海外に目を向けるきっかけとなった。同大商学部を65年に卒業と同時に早川書房に入社、1年間経理部で書籍の売り上げ動向を勉強したあと、1年間の条件付きで両親の許可をもらってニューヨークのコロンビア大学語学学校に留学した。大学のカフェテリアで知り合ったウイルキンソンという名の学生の姪がロンドンで英国屈指の名門出版社ウイリアム・コリンズ&サンズで版権担当として働いていることが縁となり、帰国前にはロンドンで2日間で30社の出版社相手に早川書房をPRする好機にも恵まれている。

 このニューヨーク滞在中に、父親が部下を連れて息子である早川さんの様子を見に来たことがある。その部下というのが当時ハヤカワ・ミステリーの編集部長をしていた常盤新平だった。常盤氏は本紙・週刊NY生活2007年11月10日号の連載「常盤新平のニューヨーカー三昧3」にその時のことをこう書いている。「はじめてニューヨークに行ったときは、プラザに泊まった。勤務していた翻訳中心の出版社の社長のお伴である。(中略)活字で読んだNYと自身で見るニューヨークはまったく違った。まさに百聞は一見にしかず、だ。五番街を歩いていたとき、ミニスカートを初めて見た。ミニスカートが流行しはじめていたのだ」と記述している。

 早川さんはこう言った。「出版というのは家内制手工業なんです。ボタンを押せば立派な文章が出てるくるわけじゃない。翻訳権を買う時には、訳者、邦題、宣伝の仕方を考え、本のデザインなどを瞬時に考える。同時に紙やハードカバーにするかソフトカバーにするか本の体裁を編集者と製作者で相談して本作りに入る。社是は『ワン&オンリー』です。活字というのは『字が活きている』と書く。一字一字が『私の顔を見てください。私の身体を見てください』というように立ってこないとどんどんと読み手を失う。出版は大きな文化の担い手だと思う」。4日には、慶應義塾ニューヨーク学院で講演し「自分の言葉で文章を表現するために新聞を読んで下さい、本を読んで下さい」と呼びかけ、出版人としての魂をニューヨークで語った。(三浦良一記者、写真も)

早川書房社長が来米

慶應義塾NY学院で講演

 慶應義塾ニューヨーク学院で4日、SFやミステリー文学に強く多くの海外文学を日本に紹介したことでも知られている早川書房の早川浩社長が「出版者のひとりごと」と題して講演した。高校にいながら大学レベルの講義を聴ける学院のシグネチャープログラムである、オムニバスレクチャーシリーズの第13回目。国際派の出版社の代表として世界の作家たちとの交流をはじめ数々の貴重なエピソードを紹介した。

 質疑応答コーナーでは、将来、出版関係の仕事に就くことを目指す生徒達から熱心な質問が寄せられた。短期間で契約する作家や本を決める時の選ぶポイント、日本文学を海外に紹介するために必要なこと、最初の導入の文章が人を惹きつけるのに重要と言われるがどうやって書いたらいいか、翻訳本は国によって売れるものと売れないものがあると思うがそれはどこで判断するかなどの質問に早川社長は、「興味を持ったことを積極的に勉強して吸収すること」や「社会人としての教養や常識を身に付けることなど深い考察が大切なこと」を強調した。また「大人にとってファンタジー文学はどんな役割があるのか」という質問に対して「人々に希望を持たせ、明るさを投げかけてくれる」と語った。講演後のレセプションでも、生徒達からの質問が絶えなかった。 

 また早川社長は、SF評論家としても知られる巽孝之学院長に学院の図書室を案内され、所蔵のカズオ・イシグロ全編、アガサクリスティー全編を始め、ハヤカワSF文庫、ミステリー文庫など昨年同社が寄贈した345冊に及ぶ新蔵書とも対面。「本棚に私が入社した当時の作品もあって驚いた」と感激していた。