ラトガース大の日米交流、100年後に国際会議、日米の要人集い盛大に

当時を語る大坪さん

 ラトガーズ大学と日本は、歴史的に非常に深い関係がある。明治初頭に300人余りの日本人留学生を受け入れている。(本紙12月19日号既報)。そこでラトガーズ大学では同大学美術館が主催して、同大に留学した初代川崎造船社長で松方コレクションで知られる松方幸次郎の就学100周年となる1988年の5月13、14の両日、中曽根元総理、建築家の安藤忠雄、ファッションデザイナーの三宅一生、国立西洋美術館の前川館長始め日米800人以上が参加して日米友好のための国際会議を同大で開催している。

 会議には、松方幸次郎の姪の松方ハルさんの関係で、夫のライシャワー元駐日米国大使が名誉総裁として会議に参加した。

会議に参加した中曽根総理にラトガーズ大学美術館を紹介する大坪夫妻

 当時、同大美術館の理事として、当初からこの会議開催の企画に加わった大坪不動産社長の大坪賢次さん(70)が同大の基金集めを目的としたチャリティー・ゴルフ・トーナメントを企画し、相当の基金が大学に集まった。ちなみにカートの1組目は中曽根総理、中曽根総理と東大で同級生だった川崎重工の長谷川謙浩会長、宇川秀幸ニューヨーク総領事が乗った。翌年、この会議について本が出版されている。

 大坪さんは当時を振り返り「この会議の後、ラトガーズ大学とニューヨーク・ニュージャージーの日本企業との間で、さまざまなイベントを行いました。また1988年の会議が縁で、ニュージャージー州と福井県が姉妹県を締結しました。日本とアメリカの関係を語る時、ラトガーズ大学は非常に重要で深い関係があるんですよ」と話す。実は、大坪さん自身も留学生として来米した。日大卒業後1968年横浜から船でサンフランシスコに到着。宿泊したインターナショナルホテルは、勝海舟一行が1860年にサンフランシスコで宿泊したホテルと同名で、1906年のサンフランシスコ大地震で倒壊後建て替えられたホテルとの説もあるそうで、若き日の自分をオーバーラップさせ、時代を超えて大志を抱いて海外雄飛した明治の若者たちに想いを馳せた。

(トップ写真:松方ハルさんと握手する大坪さん。夫人の後ろは夫のライシャワー教授)


訂正 本紙昨年12月19日号5面で報じた明治時代初期にラトガース大学に留学した日本人留学生記事中、当地で亡くなった7人の学生のウイローブ墓地の墓碑にある名前の記述で小幡茶三郎(29)とあるのは、小幡甚三郎の誤りでした。訂正してお詫びします。

慶應義塾元塾長が眠る

 小幡甚三郎=写真=は福沢諭吉の私塾で学び、明治3年には慶應義塾の塾長に就任した。1871年に福澤諭吉の勧めで留学渡米。明治5年2月末にニューヨークに到着し、ブルックリンでプライベートレッスンを受けたのちポリテック・インスティチュート(現ニューヨーク大学技術工科大学)で学んだが病気となり、フィラデルフィアの病院に入院、明治6年1月29日死去した。

 慶應義塾ニューヨーク学院(高等部)の生徒が墓参りに行っている。