カンボジア 幻の遺跡へ

大プレアカーンをたずねて

「観光客がいない遺跡に行きたい。大プレアカーンに行ける?」と、20年来の友人で考古学者のダリット君に連絡すると、「4時間かかるけど道は大丈夫。僕が運転するから」との返事。カンボジアの古都シェムリアップはアンコールワットなどの遺跡観光で有名だが、周辺には無数の寺院がある。中でも大プレアカーンは、地雷除去や道路整備が進まずに長らく訪問できなかった。アンコール遺跡群から東へ約100キロ、古代都市アンコールトムの中にあるプレアカーンと区別して「プレアカーンコンポンスヴァイ」と呼ばれている。「本当の名はプレアバカーン。フランス時代に間違って記載されてしまった」とダリット君が説明する。長年カンボジアの遺跡研究に携わる上智大学の石澤良昭氏は「1960年代には馬に乗って辿り着いた」と言う秘境だ。
 1年ほど前から就航を始めた成田からの直行便で首都プノンペンへ飛び、空港で数時間待って国内線でシェムリアップへ飛んだ。翌朝6時、ダリット君が碑文研究者の米国人ハンター君と一緒に迎えに来た。東に1時間ほど走ってレストランに寄る。「クイティウ(米麺)」豚挽肉入りを注文。「作りたてが届いたわ、おいしいわよ」と店員の女性がバイクに乗ってきたおばさんから買い付けたばかりの揚げ菓子を私たちのテーブルに持ってきてくれた。ミニバスが着き、白いブラウスに長い巻きスカートの女性たちが出てきた。「どちらへ?」「アンコールワット詣でに」などと会話を交わす。こうした人々の距離感が、10年ほど前まで住んでいた頃の感覚に私を一気に戻してくれる。
 アンコール時代の大きな石造りの橋は、現在は迂回道路を作って車両禁止になっている。その迂回道路から橋を見た後に国道から北へ、舗装されていない道に入る。アジア開発銀行(ABD)が整備したばかりのようだ。数年たつと穴ぼこだらけでまた遺跡に行けなくなるかもしれない。それほど雨季の豪雨はすさまじい。沿道の農村部の変化は都市部に比べて緩やかだが、それでも、藁葺だった雨よけをブリキに替えるのが流行っているようだし、「Wing」と書かれた看板が目立った。携帯電話ひとつで送金ができる「小規模銀行」で、都市部で出稼ぎする人たちが利用しているのだろう。いくつかの分岐点で村の人に聞きながら進み、ハンター君が携帯電話にダウンロードしておいたGPSを見て「あと2キロぐらいで都城跡の入口に着く」と言うと、いつしか周囲は森になっていた。無垢な笑顔を浮かべる少年が数十の牛追いをする光景など、昔と変わらなくてうれしくなる。
 突然、巨大な仏像が姿を見せた。発掘調査で顔や胴体などが見つかり、昨年復元されたという。小さな遺跡を左右に見ながら、都城跡の中央に位置する大プレアカーン寺院へと進む。ヒンズー寺院のアンコールワット様式(12世紀初頭)に仏教寺院のバイヨン様式(12世紀末から13世紀初頭)が加えられている。プレアビヒア州文化局派遣の遺跡番のおじいさんが同行してくれた。この日の訪問客は私たちだけだったが、乾季は毎日数人訪れるという。
 いよいよ寺院跡へ。正面の門に続く通路の両側に彫られたガルーダとナーガの彫刻が見事だ。近年の修復が見られるものの崩壊が激しい。しかし苔の緑が美しく、四面にブッダの顔を彫った塔も青空に凛と聳えている。壁に彫られたアプサラ(天女)の多くは顔がない。内戦時に軍事資金を稼ぐために削り取られたのだろう。廃墟とも言える寺院だが、中央塔にあるリンガには供え物が真新しく光っていて地元の人々が連綿と祈り続けてきたことを物語っていた。私はすべての彫像に挨拶するように寺院を見て回った。

 帰り際、水草や蓮に覆われた周濠から民謡の調べが聞こえてきた。粗末なボートに少女が2人乗っている。私たちに気づくと歌声がピタッとやんでしまったが、手を振ると笑顔で手を振り返してくれた。遺跡番小屋の近くで朝御飯を食べたレストランで用意してもらった炭焼き豚肉入り御飯のお弁当を食べた。大盛り白米は食べきれないので、遺跡番のおじさんに半分おすそわけ。この辺りの村の人は、こんな白米をほとんど食べたことはないのだろうと思いながら…。
 翌朝ダリット君から「男子誕生」とテキストメッセージが入った。遺跡から戻ったのが午後4時、1時間後に奥さんを病院に運んだという。このような大切な日に、彼は遠くニューヨークから来た私たち夫婦の同行を優先してくれた。
 誰もが「激変した」というカンボジア。初日のこの遺跡訪問がなかったら、首都プノンペンの変化や生活が格段に向上した知人たちの姿に、目を丸くするばかりだったかもしれない。遺跡もさることながら人々の穏やかで自然体の暮らしぶりが変わらないままで、そのことが何よりもカンボジアの魅力だと改めて感じる「帰省」の初日だった。(小味かおる、写真も)