編集後記 10月24日号



 みなさん、こんにちは。今週号の書籍面10面で掲載したフェイダーちえさんの書評が読み応えがあります。加藤陽子著の『それでも日本人は「戦争」を選んだ』(朝日出版)です。膨大な犠牲と反省を重ねながら、明治以来4つの対外戦争を戦った日本。指導者、軍人、官僚、そして一般市民は、それぞれに国家の未来を思い、なお参戦やむなしの判断を下しました。その論理を支えたものはなんだったのか。鋭い質疑応答と縦横無尽に繰り出す歴史が行き交う中高生への集中講義を通して、過去の戦争を現実の緊張感の中で生き、考える日本の近現代史です。フェイダーさんは「戦争について考えるのはとても勇気が要る。なぜならいかなる解説をもってしても結末は同じだから。日本は戦争に負けている。2度の原爆投下や沖縄の占領、日本中の都市を焼きつくした空襲による多大な犠牲を払いながら、未だ世界中から戦争責任を問われている。終戦からもう75年が経ち、戦争の記憶も薄れてしまっているが、忘れることはできない。なぜなら忘れてはいけないから。人類の負の遺産として引き継いでいかなければならないからと考える」と述べています。そして「2001年9月11日に起こった米同時多発テロが「かつてなかった戦争(war like no other)」と言われたことと、1937(昭和12)年7月7日の北京郊外の盧溝橋で起こった日中の軍事衝突が瞬く間に全面戦争へと拡大したことにみる、悪者を懲らしめる「報償」または「一種の討匪戦」という戦争の形を掘り起こし、時代も背景も異なる歴史的事象に共通する、戦争へ至る危うい感覚に気づかせる」と書いています。私は、この書評のタイトルに『「悪を倒す」は危険』とつけました。「悪を倒す」という理由は戦争を正当化するので危険という意味です。同時多発テロを起こしたイスラム過激派やISISなど「テロリストと話し合いはできない。掃討あるのみ」と「悪の討伐戦争」に突入した米軍や連合軍ですが、戦う相手から見たら、きっとこっちが悪なんでしょうね。戦争中、鬼畜米英などと言って戦っていた日本が敗戦でコロっとアメリカファンになってしまう。勝てば官軍、負ければ賊軍となるのは歴史の理(ことわり)。どこの戦争でも戦後は常に勝者の論理が敗者の言い分を封印します。原爆投下だって、ノーモアヒロシマナガサキの後にくる常套の謳い文句、「2度と繰り返しません人類の過ちは。。」ではなく、あれは単にアメリカの過ちです。あんなもん2度も落とさなくても戦争は終わらすことはできたはず。ひどいじゃない、と言っても武力で正義を勝ち取る国の論理には通用しません。だから、たとえ悪の征伐であっても戦争はいけないですね。「戦争も外交手段の一つだ」なんていうタカ派の言葉が出てきたとしてももうその気にはなりません。今は、それより人類はコロナという目に見えない不気味な敵と戦っています。こっちの戦争だけは人類が力を合わせて勝たないとなりません。たぶんそれには誰も異論はないのではないでしょうか。それでは、みなさんよい週末を。(「週刊NY生活」発行人兼CEO三浦良一)