原爆投下に対する日米の認識落差

編集後記

原爆投下に関する日米の認識の落差

 【編集後記】



 みなさん、こんにちは。先週のメルマガのこの編集後記で映画「オッペンハイマー」のことについて書いたので、もうそれでやめておこうと思ったのですが、同時上映されたバービー人形のSNSで原爆をお笑いのネタにして配給元のワーナーブラザーズが謝罪して投稿を削除するなどの新たな波紋が広がり、これはやっぱり紙面で記事にしておかなくてはならないなという気になったので、今週号の1面と5面で原爆投下に関する日米の認識の落差をしっかり書き留めておくことにしました。西海岸ワシントン州のリッチモンド高校の校章は、なんとキノコ雲。同校のあるハンフォードは、戦時中長崎に投下された原爆の製造工場があった町で、同町の住民の多くは町の歴史に誇りを持ち、生徒たちのほとんどが今なお、原爆を落としたアメリカは、第二次世界大戦を終わらせたヒーローであると信じています。日本人としてはなんともやるせない思いですが、戦時中に旧日本軍もまた原爆開発を進めていたという事実は日本の国民にあまり広くは知られていませんし、伝えられていません。日本陸軍は1939年4月に陸軍航空技術研究所の安田武雄所長が理化学研究所(理研)の仁科芳雄教授に原爆の研究・開発を持ちかけています。仁科博士は日本にウランがないことから断りますが、戦局が悪化した陸軍は1943年、起死回生策として原爆に望みを託し再三に渡り打診、仁科は原爆開発を受諾します。研究班には後にノーベル賞を受賞をする湯川秀樹や朝永振一郎がおり、研究を断れば彼らも戦地に送られる可能性があったそうです。仁科の名から「ニ号作戦」と名付けられました。一方の海軍は1942年に核物理応用研究会を発足させ京都帝大(現京大)の荒勝文策研究室に原爆の研究開発を委託しましたが「米国でも今度の戦争中の原子爆弾実現は困難」との結論を出し、1943年に断念しています。そんなことが本当にあったのかと思い、今から30年近くも前になりますが、まだ私が前の会社にいた頃、ワシントンDC郊外のベセスダにある米国立公文書館に行って調べたことがあります。インターネットもまだなかった頃で、日付とタイトルを係員に伝えると1時間くらい待たされ、段ボール箱5箱ほどがカートに乗っかって運ばれてきました。そこには戦時中の朝鮮半島のホーナンという町における旧日本陸軍の地下軍事施設に関する米軍の英文資料がありました。地下は街のようになっていて工場、病院、学校などがあったと記され、民間の軍事雑誌には、日本軍は日本海で原爆の実験を行い、ほのかなあかりがポーっと曇り空で光ったとの記述がありました。私の前職のデスクが「傍証されることのない歴史上のナゾ」という名見出しを付けていました。そのことについては、後日、理研は東京で記者会見を行い「原爆の研究はしていたが実験はしていない」と明確に否定し、日本の新聞の社会面に小さなベタ記事で報道されたのを覚えています。故エドウィン・O・ライシャワー元駐日米国大使は後年「核兵器開発は、戦時中どこの国も進めていて、最初に完成させた国がまず最初に使うだろうと思われていた」と語っています。日本が核兵器の製造に成功していなくてよかったです。世界で核の脅威が高まる現在、世界のなかで唯一の被爆国の日本ですが、結果的に被害者になっていただけのことかもしれません。まかり間違えば加害者になっていた可能性も一歩下がって知っておくことは無駄ではないでしょう。歴史は変えられませんが、未来は変えられます。今週号は盛り沢山です。それでは皆さんよい週末を。(週刊NY生活発行人兼CEO、三浦良一)