幕末に渡米した日本人留学生 ラトガース大学で式典

 ニュージャージー州にあるラトガース大学のカークパトリックチャペルで9月12日(土)午後3時から5時まで、同大学と日本の交流を祝う「Rutgers Meets Japan: A Celebration of Friendship」 が開催される。

 今年は同大学の卒業生であり創設者でもあるウィリアム・エリオット・グリフィス(1843〜1928年)が1876年に出版した『皇国 The Mikado’s Empire』から150周年、そして昭和天皇から旭日章を授与されてから100周年になる。これを記念しグリフィスの功績を讃え、これまで続いてきたラトガース大と日本の交流を祝うイベント。式典にはNY総領事の片平聡大使や、大学のあるニューブランズウィック市のジェームス・ケイヒル市長らが参加する。

 参加費無料だが要事前予約。予約・詳細はウェブサイトhttps://global.rutgers.edu/event/rutgers-meets-japan-celebration-friendshipを参照する。

 ラトガース大学は、オランダ改革派教会を母体とする学校を前身として1866年に創立された州立大学。ストレプトマイシンを発見したS・A・ワックスマンを輩出するなど、化学、農学、科学技術分野に突出した業績を持つNJ州最大の総合大学だ。

 この大学に近代日本の黎明期にあたる慶応3年から明治30年までの30年あまりの間に、一説では300人近くもの日本人留学生が学んだという。若林晴子/ラトガース大学アジア言語文化学科凖教授は「この節目の年を機に、グリフィスを初めとするアメリカ人教師や学友たちと日本人留学生との交流が日本の近代化のみならず、日米の友好関係、アメリカの日本理解に果たした役割を振り返ることで、人と人との繋がりを通しての国際交流や相互理解の重要性をあらためて再評価したい」と話す。

 当時この大学に学んだ日本人留学生の多くは日本の近代化に大きな足跡を残している。1867年に同大に入学した日本人最初の官費留学生、日下部太郎=写真右=のパスポート番号は第4号。日下部は、同大を3年間で首席で終えたが、1870年、卒業の1か月前に結核のためこの地で死んだ。享年26歳の若さだった。

今も眠る日本人留学生たち
青春の記録も保存

 ラトガース大を1869年に卒業したウィリアム・グリフィスは福井に招かれ、3年半の日本滞在中、福井と現在の東京大学の前身である大学南校・開成学校で教鞭を取っている。 

 そのような時代に訪日した約60人と言われるラトガース大卒業生の「お雇い外国人」教師や宣教師たちが日本の近代化に果たした役割は、欧米の他の大学に比して劣らぬものであった。

 越前福井藩士の日下部は、同大を3年間で首席で終えたが、卒業の1か月前に結核のため、1870年にこの地で死んだ。

 大学キャンパスから学生街を抜けた一角の共同墓地、ウイローブ墓地の片隅に、日下部ら日本人留学生の墓がある。並ぶ7本の墓石に、長谷川雉郎(23)、小幡甚三郎(29)、阪谷達郎、川崎新二郎(21)、入江音次郎、松方蘇介(22)の名がいずれもかすかに読み取れる。松方蘇介は、後の1884年に渡米して同大に学び、帰国後初代川崎造船社長となる松方幸次郎の従兄弟でもある。

 松方幸次郎は帰国後、川崎造船の初代社長で日本の実業界のリーダーとなり、膨大な美術収集・松方コレクションで知られる。在学中にフットボールのユニフォームに身を包む若干20歳の松方幸次郎の写真が同大図書館に保存されている。子供の頃、木から落ちて、片足が不自由だった松方が入部したのがフットボール部だった。

 同大図書館に保存されている1958年1月11日付の地元紙、ザ・デイリー・ホーム・ニューズが「明治初期の日本人留学生の墓が23年間も倒れたまま、荒地に放置されている」と報じるまで、在米邦人はこの墓の存在を知らなかった。この記事を読んだニューヨーク日系人会(JAA)の代表が、当時のポール市長にかけあい、修復工事を依頼。市長は、ヘルスケア大手のジョンソン&ジョンソンのジョージ・スミス社長に修復のための工事費、200ドルを懇願、墓石修復を行ったという。しかし1977年にこれらの墓石が再び将棋倒しのように倒れ、日下部の故郷、福井市市長が来米して修復、現在に至っている。

 このほか同大グラマースクールに学んだ日本人留学生には、1872年に特命全権大使として来米した岩倉具視の子息3人もおり、帰国後、宮内庁や外務省の要職に就いたほか、岩倉の通訳として来米。

 さらに明治維新の立役者の一人、勝海舟の子息、勝小鹿もここに学び、その小鹿の従者として渡米した富田鉄之助と高木三郎もともに同大に在籍、明治5年にできたニューヨーク領事館の副領事と領事を務めている。富田は留学生のまま副領事を4年間務め、帰国後の明治21年から1年間、二代目の日銀総裁に就いている。高木は、初代のニューヨーク総領事となり、離官後ニューヨークにそのまま留まる。製糸の輸入業を営み、日米貿易の先駆者として活躍した。日下部太郎らの墓と共に「1877年没、タカギ・サブロウ・スマ夫妻の幼女」と記された小さな墓は、この高木の亡くなった幼女の墓で、外地で娘を一人にせず、せめてともに志を同じくした同胞とともに眠らせようと、高木三郎夫妻がこの地に埋葬したのだという。

ラトガース大学日本人学生会の声

「歴史の重みに誇り感じる」

「日本文化の魅力広めたい」

「私たちの世代も受け継ぐ」

 山田雅姫(やまだ・みやき)さん(21)、ラトガース大学日本人学生会(RUJSA)会長「長い日米の歴史の中、今のこの時代にラトガース大学で日本人学生として学業に取り組み、日本人学生会の会長を務めていることに、とても不思議なご縁と誇りを感じています。これを糧に、これまで築かれてきた関係を大切にしながら、日米の新たな繋がりや価値を次世代へ残していきたいです」。

  久松万里菜(ひさまつ・まりな)さん(20)、ラトガース大学日本人学生会(RUJSA)副会長「こうした日本との長い歴史があるラトガース大学で、一人の日本人として、また日本人学生会の一員として、もっと日本の文化や魅力を広めていきたい、そして頑張りたいと思いました」。

 菅沼木乃香(すがぬま・このか)さん(20)、ラトガース大学日本人学生会(RUJSA)セクレタリー「 日本と150年ものつながりを持つラトガース大学で、今自分が日本人学生として学んでいることをとても誇りに思います。また、日本人学生会を通して、日本人としての居場所を持ちながら、他の学生に日本の文化を発信できることにも大きな意義を感じています。これまで築かれてきた日本とラトガース大学との関係を大切にし、私たちの世代もそのつながりを受け継ぎながら、日本人コミュニティの輪をさらに広げていきたいです」。