日本救ったララ物資

議事録NY日系人会で見つかる

 一冊の本がある。表紙には『紐育便覧』(附住所録) と書かれている=写真右=。1949年にまとめられた冊子で布カバー表紙の厚さ7センチほどの立派な本だ。ニューヨーク日系人会(JAA、西45丁目49番地5階)の資料室に現在2冊だけ残っている。終戦直後、ニューヨークに住んでいた日系人たちは「日本救援準備委員会」を設立し、1946年「日本救援紐育委員会」を発足、敗戦下の日本の窮状を救うため、「故国同胞を金品を以って支援す」を目的に、ララ (LARA-Licensed Agency for Relief in Asia) を通じて、295トンにも上る粉ミルクや粉卵、綿布などの物資を当時の価格で16万ドル相当分を5年間にわたって送り続けた。「ララ物資」は在米日系社会が取り組んだ終戦直後最大のプロジェクトだった。当時の貴重な議事録が、このほどJAAの資料室で見つかった。

(写真上)今回見つかった日本支援のための第1回会合の手書きの議事録

終戦直後から動く日系社会一致団結

ララ物資の資料を整理する野田さん

 コピー機などまだない時代、「JAPAN RELIEF INC」と書かれたレターヘッドの便箋にペンで丁寧に清書された文面から、敵性外国人の差別冷めやらない終戦直後の米国の中で、日系社会が、祖国日本救済で一致団結して協力した思いが文面からひしひしと伝わってくる。JAAの野田美知代事務局長は「現在資料を集めているニューヨークデジタル日本史博物館に収録して、大勢の人に見てもらいたい」と話している。

 終戦後におけるニューヨーク日系人社会での最大の関心事は、日本国内の戦災民の窮状への救援であり、救援団体の組織は危急の事業だった。

 1945年9月5日、救援団体組織についての有志懇談会への出席を求める回状が、赤松三郎、芳賀武、川俣義一、此川清一、岡田二男、清水宗次郎、山口三之助、安井關治、湯浅八郎の各氏を発起人に、ニューヨークの日系人社会に宛てて発送された。同月14日、豪雨にもかかわらず、約40人の一世、二世が集まり、救援団体組織についての懇談が行われた。

 ララ物資日本倉庫をご巡視される昭和天皇皇后両陛下(1949年10月19日、当時の記録印刷物から。提供・JAA)

 しかし、終戦とは言え、一世は依然として敵国外人であり、また日本への金品発送も出来ない状態であったため、とりあえず、準備委員20人からなる「日本救援準備委員会」を発足(湯浅八郎会長、赤松三郎副会長、松本亨書記)、研究調査を行うこととし、「故国同胞を金品を以て救援す」ことを満場一致で採決。その第一任務として、司法省、国務省その他に対して、日本救援組織の結成・活動への疑点を明らかにすることにした。

 このニューヨークの日系人から起こった日本救援への第一声は、その後、ボストン、シーブルック、シカゴなど米国各地での日系人による日本救済の動きの広がりに影響を与え、同年末には募金運動まで開始された。

 46年、日本救援の可能性が急上昇したため、5月16日、在留同胞大会を開催、「日本救援紐育委員会」設立を提案、可決され、東57丁目330番地に事務所を置くことと、安井關治会長以下の役員、募金の能率を上げるための業種別委員とその他の有志が選定された。同年8月8日ニューヨーク州法人組織として許可される一方、ララ(LARA=Licensed Agency for Relief in Asia)を通じて物資を送ることが可能になったため、9月5日、委員総会を開催、第1回募金運動に着手した。

 運動は、当市及び付近の同胞、米人有志の圧倒的支持を受け、4万8568ドル75セントの募金を得た。また、募金運動の別動隊として「紐育祖国救援演芸会」が組織され、47年3月26、27両日、パーム・ガーデンにて大演芸会を開催、2000人を超す来客があり、5200ドル以上の純益を上げた。募金運動第2回目には、当市の二世諸団体も積極的に支持、各団体が別個にあるいは合同でダンスパーティーを開催して収益を寄付した。

 日本救援紐育委員会は、ララのメンバーである米国友愛奉仕団(在フィラデルフィア)を経由して、46年10月24日から48年3月23日までに、5万8800ドルと粉末ミルク、ラルストン・シリアルを送り、米国織物工業より友愛奉仕団に寄付された8000ドルの綿布66俵を船賃(800ドル)を保証して送られた(友愛奉仕団発表)と『紐育便覧』に記載されている。