日本とトルコ100年後の恩返し

友好公演 カーネギーホールで

感謝してもしきれない テヘランで救出された沼田さん

左からトルコ大使館のセルダル・クルチ大使、向山精ニさん、NY総領事の山野内勘二大使

 日本とトルコの友好をテーマにしたコンサートが11月29日、カーネギーホールで開催され、オーケストラの演奏と映像を通じて、会場を埋めた観客は両国の絆の深さを再確認した。

 同公演を実現させたのは、和歌山県海南市のガス製造販売会社社長でアマチュア音楽家の向山(むかいやま)精二さん(72)。向山さんは、座礁船のトルコ人乗組員を和歌山県の漁民が必死に救助したこと、その約100年後に恩返しとしてトルコ航空機が空爆直前のイランに取り残された日本人を救出したことに感銘を受け、1998年に歴史や自然や友好をテーマにしてクラシック曲の作詞・作曲を始めた。

 2300席ほぼ満席の大ホールに、向山さんの指揮で、ニュー・マンハッタン・シンフォニエッタの演奏が響き渡った。前半では「友情 紀伊の国交響組曲」第5章から「九死に一生 テヘラン脱出」が演奏され、トルコ出身で国際的に活躍するソプラノ歌手のナズル・アルプテキンが着物姿で、日本語とトルコ語で1985年の脱出劇を歌い上げた。

 後半は、同第5章から「エルトゥールル号の軌跡」。アルプテキンが異なる着物姿で登場し、オーケストラの演奏にニューヨーク市拠点のデソッフ合唱団が加わり、異国情緒あふれる長旅、沈没の惨劇、両国の絆などをテーマに演奏した。

救出機に搭乗したトルコ航空の当時のCA

 ステージ背景には、前半は1985年に日本人救出のためにトルコ航空機の様子を伝える当時の写真などが、後半は航海や沈没時の様子、彼の地に建立された記念碑と慰霊に訪れる歴代トルコ大使の写真などが、ドキュメンタリー風に映し出されて、音楽とともに両国の友好について理解できるよう工夫されたステージ構成だった。

 また、前半の最後には、トルコ航空機によってイランから脱出した沼田準一さん(76)=写真=と当時の客室乗務員2人が登壇した。日産の社員としてテヘランに駐在していた沼田さんは、「トルコの人たちがエルトゥールル号のことを忘れないように、私も助けてくれたトルコにいくら感謝してもしきれません。世界の人々にこの物語と心の友情を伝えていきます。みなさんもここでの話をぜひ語り継いでください」と感極まって涙声になりながらも力強く話した。沼田さんは東京都在住、串本ふるさと大使を務めている。当時の客室乗務員ヌーレイ・チャクマクさんらは、「この感動的な救出組に参加できたことは光栄です。また、日本の友人たちが私たちのことを覚えていてくれることに感謝します。私たちも忘れません」とあいさつして、沼田さんと固い握手を交わし、会場から大きな拍手を浴びた。

沼田準一さん

 後半には、2007年に行われたエルトゥールル号の調査を率いたトルコ人海洋考古学者のトゥファン・トゥランルさんが壇上にあがり、向山さんがボランティアとして船に乗って調査に参加した逸話なども披露した。同公演にあわせて日本クラブの日本ギャラリーで遺品などが展示された。

 舞台の最後には、ニューヨークで活動する風の環少年少女合唱団も加わって、エルトゥールル号追悼歌(作詞:和泉丈吉 作曲:打垣内正)を合唱して、両国ひいては世界の平和を願って、公演の幕を閉じた。

 トルコ人観客からは、「父親から日本とは仲がいいとは聞いていたが、こんな話があったとは知らなかった。ぜひ多くの人に語り継がれるべきだ」「これを機に、ニューヨークでも日本とトルコの友好を深めていくといいと思う」「すばらしいコンサートだった。映像と音楽で、両国の歴史を理解できた」などの感想が聞かれた。本公演は、向山さんの尽力で、ターキッシュ+アメリカン・アーツ・ソサエティー・オブ・ニューヨークが無料で主催、司会は千葉商科大学准教授のムズラックル・ハリトさんが務めた。(小味かおる記者、写真・三浦良一)

《エルトゥールル号の座礁事件》1890年、オスマン帝国(現トルコ)のスルタン・アブドゥルハミト2世の勅命を受けて、明治天皇に対し帝国最高の名誉勲章奉呈のため、使節団587人がイスタンブールを出発、約11か月の航海で日本に着いた。明治天皇謁見後、横浜港を出ると嵐に会い、和歌山県沖で座礁。漁民は嵐で海に出られず困窮を極めるにも関わらず、必死の救助と介護をして、69人の命を救った。500人を超える死者を出した大惨事は、日土友好のきっかけとなり、同県の串本町にはエルトゥールル号殉難将士慰霊碑が建立され、5年に1度、在日トルコ大使館と同町の共催で慰霊祭が行われている。
《テヘランでの日本人救出作戦》1980年にイラン・イラク戦争が勃発。イランはホメイニ師によるイスラム原理主義革命でパーレビ体制が崩壊し、イラクは米国の支持を受け両国は敵対していた。85年3月、時の大統領フセインが48時間後上空を通過する航空機をすべて無差別に攻撃すると宣言。イランに駐留する外国人たちは脱出を目指してテヘラン空港に殺到した。ところが各国が救援機をさし向けるなか、軍事行動のできない日本だけが動けず救援機を出すことができなかった。イラン駐在の日本人には脱出する手段がなく、文字通り取り残された。タイムリミットが迫るなか、1機の旅客機が飛来した。絶望の淵から日本人を救うために迎えに来たのは、トルコの航空機だった。パイロットたちの合言葉は「エルトゥールル号の恩を忘れるな」だった。攻撃75分前に離陸、在留邦人216人全員が無事にトルコに向け脱出して、日本へ帰国することができた。  (写真は日本クラブでの展示から)