命のビザで日米交流

渕上敦賀市長が来米

 渕上隆信・敦賀市長が世界最大のユダヤ・コミュニティが存在するニューヨークを来訪し、同コミュニティとの関係を強化する目的で12日、ニューヨーク日本総領事公邸で同市にある「人道の港 敦賀ムゼウム」の紹介と感謝の挨拶を行った。

 敦賀港は、明治から昭和初期にかけて、シベリア鉄道を経由して日本とヨーロッパを結ぶ国際港として発展した。1920年代にはロシア革命の動乱によってシベリアで家族を失ったポーランド孤児、1940年代には杉原千畝氏が発給した「命のビザ」で救われたユダヤ難民たちが上陸した歴史がある。当時の建物を復元した資料館「人道の港 敦賀ムゼウム」では、孤児と難民が上陸した歴史、彼らに手を差し伸べた人々、そして敦賀の人たちが迎え入れた様子を後世に伝えている。

 同日はニューヨーク日本総領事館主催により、日本とユダヤ・コミュニティとの交流を促進するため、当地における各種ユダヤ団体の代表やホロコースト・サバイバーを集めたレセプションが開催された。当日は、親や親族がナチスからの迫害を逃れて日本を経由してアメリカに渡ったユダヤ系市民の子孫や関係者60人余りが招待された。

 渕上市長は当時敦賀に上陸した人々に子供たちがりんごを手渡して苦労を労った話、難民が腕時計を質屋に入れてお金を借りたが、

質屋は持ち主が取りにくるかもしれないと思い、自分の娘が欲しがった1つの時計以外は質流に出さなかった話、唯一残った娘の腕時計が展示されていることを紹介、「水際対策が大幅に緩和された日本へどうぞみなさん敦賀へお越しください」と感謝の挨拶をした。

 レセプション前の式典では、ニューヨーク総領事の森美樹夫大使、渕上市長、イエガー・NY市議、アサフ・ザミール在NYイスラエル総領事による挨拶、ホロコースト・サバイバーの娘ローラ・レオンさんによるピアノ演奏「マーシャのありがとう」=写真=が披露された。福谷正人・敦賀市議会議長の発声で乾杯し、コーシャ料理、酒、和食などがブッフェ形式で振る舞われ、和やかに懇談した。

(写真左)ユダヤ系市民の招待客たちを入り口で歓迎する左から森大使、渕上市長、福谷市議会議長(12日NY総領事公邸で)

(写真右)© 2020 Musical Tapestries Inc.

命のビザに感謝

生存者の娘が演奏、NYで3姉妹育てた母

杉原千畝の出したビザで日本を通過してNYに来た母親の故マーシャさん

 第二次世界大戦中にヨーロッパから逃げるために陸路シベリア鉄道を使って、さらに船に乗って日本経由でアメリカに渡った多くのユダヤ人がいた。手にしていたのは戦時下に海外渡航するための唯一の手段である第3国を通過する「命のビザ」だった。

 その2000余りの手書きのビザを書いた外交官、杉原千畝と日本に感謝する家族がニューヨークにいる。当時10歳だった少女、マーシャ・ベルンスタイン(後に結婚して姓はレオン)さん。5年前に86歳で他界したが、3人の娘たちは協力して1枚のCD「マーシャのありがとう」を作った。

 ニューヨーク総領事公邸で渕上隆信敦賀市長を迎えて12日開かれたレセプションで曲を披露した娘のローラさんはピアノを弾く前にこう語った。「私たちの母マーシャは、1941年2月に敦賀に着き、神戸に2月24日に着きました。当時10歳だった母は、聖マリア・カトリック小学校でフランス人の尼に可愛がってもらったようです。母と祖母ゼルダ・バーンスタインは、神戸を拠点に東京、奈良、大阪、宝塚などへも日本滞在中の6か月間で足を伸ばし、侍映画を見たり、本町を歩いたりした思い出を私たちに話してくれました。その時の経験が、後に、米国に渡って母親が結婚し、3人の娘を産んでユダヤ系新聞社の記者として働きながら私たちを歌舞伎公演や文楽に連れて行くなど日本文化に触れさせて育てました。母が天草丸に乗って大航海した経験は、現在の私たちの平和な生活につながっています」。

 CDは、命のビザ80周年を記念して2020年にピアニストのローラさん、写真家でイラストレーターのカレンさん、作曲家のニーナさんの三姉妹が協力して作ったものだ。

 「揃って3人が芸術の世界で生きてこれたのも、母が少女時代に日本のみなさんからの温かいもてなしを受けたことを心から感謝して、日本の文化を愛情を持って私たちに教育したからでしょう。本日は米国初公演となる『マーシャのありがとう』をお楽しみください」。 


左からスティーブン・コーエンさん(ローラさんの息子)、ローラさん、カレンさん、渕上敦賀市長、森NY総領事・大使、西川人道の港発信室長

マーシャのありがとう
日本の思い出を曲に込める

 「マーシャのありがとう」は、杉原と日本への感謝の気持ちを表すためのビアノソロ作品であり、イディッシュ民謡「 A Kleyn Meydele」と日本民謡「さくら」を基に、ニーナ・レオンさんによって作曲された。説明書によるとこのCDは、「母親、マーシャ・レオン(1931年〜2017年)への3人の娘からの賛辞であり、第二次世界大戦中におけるカナウスの英雄的な日本人外交官杉原千畝、そして日本の人々への感謝の気持ちを表すための作品でもある」と書かれている。

 マーシャはポーランドのワルシャワで生まれ、ホロコーストを生き延びた後、国際的に有名なコラムニストとなった。彼女と母親のゼルダ・バーンスタインは杉原が発給した「命のビザ」を受け取り、1941年2月に日本の敦賀に逃れた。10歳の少女だったマーシャは、神戸に滞在していた6か月の間に日本語を学んだ。「マーシャのありがとう」は、2020年11月3日、人道の港敦賀ムゼウムのリニューアルオープン式典で、堂田展江氏によって初演された。CDジャケットの表紙には、1941年にマーシャが暮らした神戸での子供時代の思い出の品であり、人道の港敦賀ムゼウムに寄贈された扇子がセーラー服姿の当時のマーシャさんの写真と共にデザインされている。CDの詳細は https://lauraleonpiano.com/cds/cds/c/241

musicaltapestries inc.com

上陸の地福井県敦賀市
人道の港 敦賀ムゼウム

住所:〒914-0072 福井県敦賀市金ケ崎町23-1

電話:+81-770-37-1035

定休日:水曜、年末年始

料金:大人500円,小学生以下300円

公式サイト:tsuruga-museum.jp

(日本語・英語・ポーランド語)

外交官に救出されたユダヤ人

北出明さんの続・命のビザ英語版を会場で配布

北出明さん

 「命のビザ」に関連したテーマで2010年から調査・執筆・講演活動を行ってきた北出明さんが、2012年に出した前著『命のビザ、遥かなる旅路〜杉原千畝を陰で支えた日本人たち〜』の続編で一昨年11 月に出版された『続・命のビザ、遥かなる旅路〜7枚の写真とユダヤ人救出の外交官たち〜』の英語版(キャッツ邦子・訳)が当日の招待客に配布された。

ジャズマンの父親の物語
ウラジオストクから日本

左からデービッドさん、ドブさん、シラさん

 レセプションがまだ盛大に続いている時に記者は総領事公邸を出た。後ろから総領事館の職員が追いかけてきて青いトートバックを敦賀からの土産だと言って手渡してくれた。地下鉄に乗ってオフィスに戻る車内で、目の前で同じ青いトートバックを持っている若いカップルに気づいた。「レセプションにいたのですか」と尋ねた。そうだという。二駅目で降りなくてはならず、詳しい話はできなかったが、自分が記者であることを伝えて名刺を渡して連絡してくれるよう頼んで別れた。話せたのは2分くらいだった。翌日、メールがきた。

おはようございます。

 こちらはドブ・マンスキーです。妻のエリン・パーシュと昨夜、電車であなたに会いました。お会いできて、簡単にお話できてうれしいです。以下は、昨夜のイベントに参加した私の父David Manskiが語った、私の家族のポーランドからの脱出についての詳細なストーリーです。このメールは父とも共有していますので、私の家族の物語についてさらに質問がある場合は、そちらをご覧ください。

あなたは音楽ファンなので、今夜の私のライブに招待したいと思います。私はジャズ・ギャラリーで演奏し、私の両親と西川明氏は7時30分のセットに参加します。もしお時間があれば、ぜひご参加ください。

 ここで、私の父デービッド・マンスキーが語る、私の家族の物語をご紹介しましょう。

 私の祖父(父の父)は1937年にポーランドのリダからアメリカに渡りました。彼の妻(父の母)は、1939年にアメリカに来るための手続き(ビザの取得)をすでに始めていたようです。その後、ドイツとロシアがポーランドに侵攻し、彼らはワルシャワのアメリカ大使館に書類を取りに行くことができなくなったのです。リダは東部にあり、ロシアに侵攻されたので、祖母、サム(叔父)、ミラ(叔母)、父サウル(当時10歳くらい)はリトアニアに行き、いとこの家に泊まりました。また、父の叔父と叔母、1番目の従兄弟とその年老いた祖母も一緒に出発しました。リトアニアでは、おそらくカウナス(当時の首都)でアメリカ政府からビザを取得したのだろうが、ロシアで取得しなければならないと言われた(あるいはそのようなことを言われた)。そして、杉原氏が通過ビザを出したという話を聞いたのでしょう。カウナスまで行ってビザを取ったのは、祖母とミラおばさんです。叔父のサムは19歳くらいで、徴兵されやすいので、隠れて人前に出なかった。父はまだ若かったので、カウナスまで行くのは無理だったようです。彼らは、祖母とミラと父に1枚、サムに1枚の計2枚の通過ビザを取得した(18歳未満の場合は、親のビザ)。そのおかげで、彼らはモスクワに行き、そのままシベリアを横断してウラジオストクに行き、日本に行くことができたのです。1941年1月初旬に日本に到着し、5月に船でシアトルへ向かった。彼らは他のユダヤ人難民と一緒に神戸にいました。父の祖母は高齢でこの旅には出られず、他の親族と一緒にリトアニアに残されましたが、全員ナチスによって殺されました。私の家族のようにアメリカのビザを持っていなかった叔父、叔母、従兄弟は、昨晩お話した上海のゲットーに送られたそうです。

 もし、これが興味深く、お役に立てれば幸いです。

また、質問があれば教えてください。

よろしくお願いします。

Dov Manski

 終日外出していてこのメールに気がついたのは、午後6時を過ぎていた。演奏は午後7時30分。「まだ間に合う」。マンハッタンのブロードウエー27丁目の会場まで急いだ。 トリプルブラインドというジャズグループで、ドブ・マンスキーはピアノとキーボード奏者だった。チック・コリアを思わせる繊細な演奏だった。父親のデービッドさんと母親のシラさんも来ていた。敦賀市観光部・人道の港発信室の室長、西川明徳さんも一緒だった。3年ぶりの再会だという。演奏後会場を出ると土砂降りの雨だった。   (三浦)