「テロと銃犠牲者重なる」

日本人犠牲者の名前に手を当てる砂田さん(10月26日午後、グランドゼロで、写真・三浦良一)

息子の死から25年、砂田さんNYに

 1994年8月4日、クイーンズ区レフラックシティのアパートビル非常階段で、日本人青年、砂田敬さん(当時22歳)がアルバイト先のレストラン中川から帰宅直後、暴漢に銃で撃たれて死亡した。父親の砂田向壱さん=元九州大学大学院特任教授(73、当時48)は、翌5日、出張先のサンノゼで日本の妻から「敬が撃たれた。今は脳死状態だけどお父さんが来るのを待っているからすぐにニューヨークに行って」。翌6日朝8時頃、息子が収容されているクイーンズのエルムハースト病院に到着。本人の身元確認。擦ったり揉んだりした。しばらくして所轄のNYPD110分署警察署を訪問。事件現場に案内され、息子の頭を撃ち抜いて壁に当たった弾痕や血の海に横たわっていた息子の状況を聞かされ、助けることができなかった無念さに加えて怒りで身体が震えた。
 砂田さんは事件後、日本で銃規制運動を起こし、全米ライフル協会(NRA)を相手に全米の銃器メーカー32社を相手どり銃器製造責任訴訟を1999年に起こした民事集団訴訟で全米初の勝訴評決を受けた。担当したエリサ・バーンズ弁護士はロバート・ケネディ・アワードを受けている。十三回忌にニューヨークに来て以来12年ぶり、事件から25年ぶりにニューヨークを訪れた。
 10月26日午後、グランドゼロに行った。メモリアルで、日本人犠牲者たちの名前を見つけた砂田さんは、名前を手でさすり、合掌した。「テロで亡くなった犠牲者と銃犠牲者は同じではないが、愛する家族を失った残された遺族の思いには重なるものがある」と語った。