八神純子さん、米国殿堂入り

米女性シンガーソングライター
日本人として初めて

 日本のシンガー・ソングライター八神純子さんが、米国の音楽団体「女性ソングライターの殿堂」(本部メリーランド州)から17日、今年度のアワードを受け、日本人としては初めて殿堂入りを果たした。

 丁寧に作り込まれた歌詞で聴衆を刺激する高い歌唱力と音楽性が高く評価され、長年の功績を称え、更なる活躍を期待しての受賞となった。今年は八神さんや米国の女性歌手ら9人が伝統入りした。

 八神さんは「ラブソングから環境など地球の未来を見つめる曲まで、自分にしかできない歌を歌い続け、作ってきたことが認められた」と喜びを語った。

 同団体は女性音楽家を支援するために発足した新しい団体で、第1回の昨年はロバータ・フラックさんらが受賞した。八神さんは名古屋市出身で1978年にデビュー。「みずいろの雨」「ポーラースター」「Mr.ブルー〜私の地球〜」など多くのヒット曲がある。現在はカリフォルニア州在住。

米国で殿堂入りを果たす

歌手・作曲家 八神 純子さん

 メリーランド州に本部のある米国女性シンガーソングライターの殿堂から17日、日本人として初めてアワードを受賞した。受賞理由は八神さんの丁寧に作り込まれた歌詞で聴衆を刺激する高い歌唱力と音楽性と長年の功績を称え、更なる活躍を期待するというものだ(6面に記事)。

 八神さんは1978年に「思い出は美しすぎて」でプロデビュー。「みずいろの雨」「ポーラースター」「Mr.ブルー〜私の地球〜」などの数々のヒット曲を持つが、実は、いま米国で、八神さんの日本でのヒット曲「黄昏のBAY CITY」、アルバム「コミニュケーション」などが十代の若者たちの間で一大ブームになっている。噂は以前から耳にしていたが、ある日、カリフォルニアの自宅で息子から「お母さんYOUTUBE見て、大変なことになっているよ」と言われて見た動画で二人のラッパーが褒めていた。シティポップにどう火がついたのかは分からないが「時代がなせる技ですね」としみじみ。「音楽がほとんど無料になってしまった代わりに音楽がみんなのものになったんだな」と思うようになった。コロナ禍直前まではライブで音楽活動していたが、パンデミック以降は配信ライブも含めて「どんなことがあっても歌って行く」をモットーに一つ一つのコンサートを続けている。滞米生活は35年を超える。

 「エンターテイナー、アメリカで住むことによってエンターテインするということの価値観が日本に住んでいた頃と変わったんです。エンターテイナーというのは、どんな場所にいてもその人たちの心を違ったところに持っていかなければいけない。ここにマイクがないとか楽器がないとかじゃなくて、声さえあったらそこの場所で特別な空間が作れるのがエンターテイナーなんだなと思う」。

 2001年の米国同時多発テロの時、子育ての時期と重なり、米国を離れるのが怖くなり年に2回の帰国コンサートが中断し10年間現役歌手生活から遠ざかった。そんなとき有名音楽番組「SONGS」で特集され、今後の予定を聞かれた時、本当は何も予定などなかったが、「コンサートができればいいですね」と答えたのがきっかけで2011年の5月に東京の渋谷でコンサートが決まった。3月11日に東日本大震災が起こった。その日、5月のコンサートのリハーサルのため、日本へ帰る予定だった。コンサートは半年延期になったが、「トランス・パシフィックキャンペーン」を立ち上げ、5月に被災地となった岩手県の陸前高田や宮城県の南三陸町を訪れたのをきっかけに支援活動を始めた。

 八神さんは初めて被災地を訪れた時、自分の1番のヒット曲「みずいろの雨」を歌うことにためらいを感じていた。「崩れてしまえ、流されていく愛の形」の歌詞が、津波で愛する人を失くされた人々の前では歌えなかった。そんな人々の一人が言った。「どうしてみずいろの雨を歌わなんですか。みんなファンだけどCDを流されてしまってもう聞けないんですよ」。その言葉を聞いた瞬間、「みずいろの雨」は八神さんの中で「懐メロ」ではなく「今を生きる歌」として蘇った。歌った。会場の空気が一瞬で変わった。歌った途端に自分はエンターテイナーでいられると思った。「ヒット曲を歌うというこことはこういうことなんだ。ヒット曲って素晴らしいな。大事にしなきゃ」と痛感した。

 「私は日本のソウルを持っている女性。パッション(情熱)のある歌をこれからも歌い続けていきます」そう穏やかな笑顔で語った。(三浦良一記者、写真も)