その1:ルート66の歴史を振り返る

魅惑のアメリカ旧国道「ルート66」をフォーカス

 ルート66ファンの皆さんこんにちは! さて、「魅惑のアメリカ旧街道ルート66」は今月よりシリーズ第3弾をスタートします。第1弾はルート66出発地点のシカゴより、終点サンタモニカまで27か月にわたり皆さんと一緒に旅をしました。第2弾では「何でもベスト10」と銘打ち、ルート66上のモーテル、お土産屋さん、レストランなど、筆者の独断と偏見で各テーマ10か所ずつ紹介しました。そして今回の第3弾は、ある特定のトピック、街、人物、そしてルート66の抱える問題点や将来のテーマなど、それぞれの内容にフォーカスして、「この場所行ってみたいな、あの人に会ってみたいな」という気持ちを持っていただけるような内容で、毎月また皆さんにルート66の魅力を発信できればと思います。
 ということで、今月はまず「ルート66」について再度おさらいをすることから始めましょう。ルート66については2016年1月の第1回掲載でも触れました。また? と言われそうですが、あれから3年3か月の月日が経っていますので、もう一回記憶のリフレッシュといきましょう。
 ルート66、いわゆるアメリカ(旧)国道66号線はイリノイ州シカゴからカリフォルニア州サンタモニカを結ぶ全長2347マイル(3755キロ)で、20世紀初頭に急速に発展した自動車産業の影響から、ニューヨークとサンフランシスコを結んだ「リンカン・ハイウェイ」に続き、オクラホマ在住の実業家サイラス・アベリー氏の計画と尽力によって、1926年「メイン・ストリート・オブ・アメリカ」の愛称のもと、完成しました。この66号線は元々ミズーリ州内の「オセージ・インディアン・トレイル」と呼ばれるネイティブ・アメリカンの古道が起源になっていますが、その後同州を東西に横断する旧ミズーリ州道14号線を経て、ルート66へと発展しました。ではなぜ「66」だったのでしょうか。
 アメリカ合衆国で初めて国道システムの設置が提唱されたのは23年で、ルート66(国道66号線)はそのわずか3年後に開設されましたが、ルート66は当初からの提案に盛り込まれていた、①「国道番号を偶数とすること」、②「番号を「60」から始めること」の2点に基づき、さらには「覚えやすい、言いやすい、聞きやすい」の三拍子が揃うという理由から「66」が割り当てられました。結構イージーですよね。
 その後、国道システムが正式に創設されると27年にはオクラホマ州タルサで国道66号線協会が発足。この協会の目的は国道66号線の舗装促進と利用者の増加に尽力することで、翌年、バニアン・ダービー(Bunion Derby)という、ロサンゼルスからニューヨークまでの大陸横断競走レースを計画しました。(ロスアンゼルスからシカゴまでは国道66号線を走るルート)このレースは名俳優ウィル・ロジャースをはじめ多くの著名人たちに支援され、国道66号線協会のプロモーションは大成功に終わります。しかし30年代後半、カンザス、オクラホマ州にかけて大規模な砂嵐が頻発し、難民と化した農家の人々は明るい未来を求めて温暖なロスアンゼルスへ向かって脱出を図りました。カリフォルニア州出身の作家ジョン・スタインベックはその模様を小説「怒りの葡萄」で描き、同小説は40年ピュリツァー賞を受賞。翌年にはジョン・フォード監督がそれを映画化し、一躍ルート66の名前は世界に知れ渡ることになりました。小説の中でジョン・フォード監督は、ルート66を「マザーロード」と呼び、その名は現在主流の呼び名の一つとなりました。
 このように未来を約束されたかのように見えたルート66ですが、56年、当時のアイゼンハワー大統領が「連邦補助高速道路法」に署名をしたことからルート66の衰退は始まります。この法案はアメリカ国内に高速道路交通網の建設を目的として成立させたもので、これ以降国内の主要な国道は次々と州間高速道路(インターステート・ハイウェイ)に取って代わられて行きました。
 そして終に84年、アリゾナ州ウィリアムズにて、インターステート40号線の最終部分が完成したことにより、国道66号線の最後の部分が置き代えられ、その翌年国道66号線は正式に廃線となりました。
 筆者とルート66との最初の出会いは、60年代前半に放映されていたアメリカのTV番組「ルート66」です。トッドとバズという2人の青年がシボレー・コルベットに乗って旅をする、軽快なテーマ曲が素敵なドラマでした。その後、アメリカ・ポップカルチャーの影響を受け、90年に手に取ったMichael Wallis氏による『Route 66 The Mother Road』という本は筆者に多大な影響を与え、「いつかルート66を走ってみたい!」という気持ちを呼び起こしてくれました。そしてそれは93年に実現し、シカゴからサンタモニカまで初完走するきっかけになったのです。(実際にルート66に関わる活動を真剣に考え始めたのは、実はそれから15年近くも経った2008年頃になるのですが)
 それでは次回からさまざまな事柄にフォーカスしてルート66のさらなる魅力をお伝えします。また来月お目にかかります!
(後藤敏之/ルート66協会ジャパン・代表、写真も) www.toshi66.com