映画少年だったスピルバーグが世界の巨匠になるまでの話

成田陽子のTHE SCREEN

 今でも昨日の事のように覚えているスティーブン・スピルバーグとのワン・オン・ワン・インタビューは、「シンドラーのリスト」(1993年)の時。第2次大戦時期にユダヤ人を救ったドイツ人起業家の実話映画である。

 「実は私の祖父はベルリンで日本大使館付き武官となってヒットラーの愛犬と血がつながっているシェパードを日本に持ち帰って母たちが飼っていたのですよ」と私が言うと「おお!何という恐ろしい話!」と体全体を動かして恐怖の反応を見せたのである。ナチと聞いただけで多くの親戚をホロコーストで失った彼の条件反射だった。こちらは愛犬を通しての珍しいエピソードと思ったのだが、彼の驚愕の表情を見てこちらも怯んでしまい、その後はギクシャクしたやりとりになってしまったのである。

 さて新作「ザ・ファーブルマンズ」は彼の生い立ちを描いた半自伝記で、小学生の時から日本製の8ミリカメラで妹達を配役して作り始めた「映画愛」のドラマと言えよう。

 「この映画は今のアメリカに住むユダヤ系の人々のために創った。僕の家族を描いたホームムービーの延長と言えるだろう。アリゾナでの少年期ではもっぱらジョン フォードに心酔して、映像のアングルなどしこたま真似をしていた。その影響で西部劇や戦争ドラマを創って得意になっていたが、カリフォルニアの高校に転校して、初めてユダヤ系だと言うだけで酷いイジメにあった。ただ僕がかなり高級なカメラを構えて撮影していると周囲が受け入れてくれると知り、「カメラは社会へのパスポート」だと悟ったのですね。

 2020年はコロナ全盛期でどこにも行かず、ひたすら家族との結びつきに集中していた。その時に今、最も創りたい、人々に伝えたいストーリーは自分の若い時の経験だと気が付き、家族たちも僕のアイデアを揃って支持してくれた。

 16歳の時、撮影したフィルムに偶然母と母の恋人が写っているのを見て完璧な結婚をしている両親だと信じていた僕は物凄い打撃を受けてしばらくカメラを持てなかった。自分のコントロールの及ばないところで巨大な悲劇が起こっている事実に打ちのめされてしまったんだ。しかし若かった僕はやはり映画を作るのが自分の生きる道だと確信して、そこから僕は一直線で監督業に邁進して来た。

 ホロコーストで亡くなったユダヤ人の親戚がかなりいて、彼らのために「シンドラーのリスト」を映画化し、世界中から高い評価を受け、大きな励ましになったのが30年前。今回は僕自身のアメリカでのユダヤ人家庭を描いてみたかった。

僕の母はピーターパンのような、夢を追う、歌って踊ってピアノを弾くのが大好きで、ミシェル・ウイリアムズがそのイメージにぴったりだったし、何もかも理論に従って物事を進める静かで優しい父をポール・ダノに演じてもらって、ふたりとも、それは豊かで瑞々しい役作りをしてくれて感謝している。僕を演じたガブリエル・ラベルは撮影当時19歳、カナダ生まれのユダヤ系で、かなりオタクタイプの多感な高校生を素直に演じてくれた。その昔、僕のホームムービーに勇んで出てくれた妹達は今、映画業界で働いているのだが、僕が次は本物の西部劇を創りたいと言ったら「女性の役を多くして下さいね」とやんわり忠告されてしまった。

 今だにDVDやLPを集めて鑑賞するのが好きな「オールド ファッションド ガイ」だと半分恥ずかしそうに、半分誇り高く告白する世界の巨匠であった。