編集後記 7月25日号

みなさん、こんにちは。ニューヨークで今月14日、新型コロナウイルスに感染して亡くなった日本人アーティスト、飯塚国雄さん(81、本紙25日号既報)について、アート・ディレクターの百田(ひゃくだ)かずこさんが、今週号で追悼記事を書いている。それによると、今から6年前、日本クラブの本多康子ディレクターから飯塚さんに戦後の1950年代から70年代にかけて日本からニューヨークに渡ってきた芸術家たちの展覧会はどうかと打診があった。ついてはニューヨーク日本人美術家協会(JAANY)ゆかりの作家たちとその作品を広く紹介したいということだったそうだ。そこで2014年6月19日からの4週間、日本ギャラリーでの「海を渡ってきた芸術家たち」展では、福田春人・福田隆之・飯塚国雄・木村利三郎・小西雪村・満志子・宮本和子・森本洋充・ロス郁子・作山畯治・佐藤正明・篠原有司男・末村敬三・分嶋健介・和田スティーブら15人の作品が展観された。この評判が功を奏し、翌15年、同様の企画展パートⅡが開催され、川島猛をはじめとする総勢25人の作家作品が展示され、2回のアーティストトークも盛況であった。飯塚さんはこの時期、JAANY創設時のコンセプト「在米日本人作家の支援」を日系美術史上に残るイベントとして結実させたのだと百田さんは書いている。飯塚さんは1961年、貨客船サントス丸に乗って西海岸に上陸。ニューヨークにやってきたのは64年だった。その後永住権を取得し、ニューヨークの「アート・スチューデント・リーグ」彫刻スクールで教鞭を執った。73年ニューヨーク日本人美術家協会を創立し、初代会長となる。医師だった母親の愛を注がれて母子で育ち、渡米前の結婚後に探し充てたまだ見ぬ父親が被爆者であったことを知り、反核がアート活動の根源となった。95年ニューヨークの国連本部で反核個展「われわれはどこへ向うのか」展を開催。その重いテーマ性から社会派作家とも称されるが、恋人や愛をテーマにした作品も多く残しており、すべてが人間主義に貫かれていた。98年に紺綬褒章を受賞。カラオケで歌を歌うのが好きだった飯塚さん。本紙オフィスにも飯塚さんから寄贈を受けた版画「ブルックリンブリッジの恋人たち」(2003年)が大事に所蔵されている。アーティストを引き寄せる街ニューヨークで、これからも日本人、日系人アーティストたちの活躍を紙面を通して見守っていきたい。それでは、みなさんよい週末を。(「週刊NY生活」発行人兼CEO三浦良一)