出版とニューヨークの街

 

秦 隆司・著 ボイジャー・刊

 昨年12月に発行されたニューヨーク在住の編集者、秦隆司の著作『ベストセラーはもういらない』は、アメリカの出版事情を元にニューヨークの街を描いた本だ。ニューヨークの小さな出版社ORブックスを設立したジョン・オークスという編集者の活動に注目して執筆が始まった。ジョンはニューヨークで25年以上のキャリアを持つ編集者で、著者は彼を3年間取材してこの本を仕上げた。
 著者は最初ジョンに出版社や仕事の話を聞いていたが、取材を進めるうちに彼がニューヨーク・タイムズを今の新聞社にしたアドルフ・オックスに繋がりがあることを知り驚いた。つまり、ジョンはニューヨーク・タイムズの今の社主であるサルツバーガー/オックス家の一員だったのだ。著者は「そんなことも知らずしたり顔でジョンとアメリカの出版の話をしていたんだと気づき、ワーと叫んでハドソン川に身投げしたい気分」になったという。
 ジョンを語るには1800年代にニューヨークに移民をしてきた彼の祖先、そしてニューヨーク・タイムズの歴史、当時のジャーナリズムの世界を避けては通れないと気づいた著者はジョンへの取材を交えてジョセフ・ピューリッツァーやウィリアム・ハーストが活躍していたニューヨークの街や新聞界の話、瀕死のニューヨーク・タイムズの買収、再建の歴史を紐解いていく。
 ジョンは老舗出版社グローブ・プレスの編集者としての道を踏み出している。この出版社を率いたバーニー・ロセットは、大江健三郎、サミュエル・ベケット、ジャン・ジュネなどの作家の作品をアメリカに紹介した人物だ。バーニーは『チャタレイ夫人の恋人』『北回帰線』『裸のランチ』のアメリカでの出版を巡って出版禁止裁判で争い、勝訴した人物でもある。バーニーは優秀な出版人だったが、どこか人間として破綻した部分もあった。彼は最終的には大富豪ゲティの一族から自分のこの出版社を追い出されている。アメリカの書籍出版の歴史を紐解きながら、バーニーの変人といえる人柄も浮かび上がらせている。
 また、ジョンが始めたORブックスはデジタル技術を使い「返本ゼロの出版社」を作り上げた。現在、出版業界が置かれている困難な時代に向き合い、新たな形の出版を作り出した。古い慣行を捨てた積極的な出版スタイルが見えてくる。
 ジョンというひとりの編集者を軸に、1800年代から現在までのジャーナリズム、新聞、そしてニューヨークの街を描いた本書は大変興味深い内容となっている。本書はキンドル版でアメリカのAmazonからも購入可能。その際は「秦隆司」で検索すると見つけることができる。(宮家あゆみ)