運河で知られる港町の演劇祭へ

ドイツ北部キール市

 キール市はバルト海に面したドイツ北部の都市で、デンマークに近い。私の作品「舞踏メディア」がセスピス演劇祭(第11回国際独り舞台演劇祭)に招待され昨年11月に訪れた。
 ハンブルグ飛行場を降りると肌寒く、冬を先取りしたような気候を感じた。市内に向かう車窓からの紅葉がとても綺麗で時々目を奪われた。 
 時差ボケも何のその、ホテルに到着するなり開会式に出る準備をしなくてはならない。日本/アメリカ代表だけに身なりを整える。ドイツ国内のテレビ番組や映画で活躍する俳優の作品で幕が開き、一週間自分の作品の発表とともに各国のソロアーティスト、地元の演劇関係者、観客と国際交流をしながら過ごすこととなる。 
 やはり旅の醍醐味は飲食。最初にびっくりしたのは夕食の軽さである。到着した日は機内食が何も出なかったため、朝から何も食べずに開会式と観劇で、ようやく夕食にありつけたのが夜10時過ぎ。待ちに待った夕食にスープが一杯だけ出され、「前菜?」と思ったらそれがドイツ風というか中欧の風習とのこと。ドイツでは昼食がメインで、次に朝食だ。夕食は最も軽く、大抵はスープとパンのみ。数日後には演劇祭に参加する各国からの滞在者からの要望で、夕食時にパスタなどが出るようになったが、昼食は変わらずドイツ料理。でも、これが何より私の旅の楽しみになった。多種多様のドイツもしくは中欧のビール(チェコ、オランダ、ポーランド)、肉料理(牛、子羊、豚、チキン)か魚料理(シャケ、白身魚、海老)、ポテトかご飯、そして野菜サラダが一皿に盛られ、かなりお腹一杯になる。昼食後はダウンタウンを散歩しつつホテルに帰り、夕方から2作品観劇。観劇の合間はバーで飲みつつ談話。毎日のスケジュールはほぼ同じである。
「舞踏メディア」は4日目に上演だった。照明デザインが複雑ということ説明したにも関わらずリハーサルに現れたのは照明見習いさんで、何とか照明が出来上がるという時にプログラムしたものがすべて消えるという事故も起き、舞踏を全く知らない照明の見習いさんはパニック状態で照明をゆっくり落として暗転ということすらできない。しかも英語がほぼできない。とにかくポジティブ思考で励まして、なんとか本番に持ち込んだ。満員御礼、公演は盛況に終わった。時に本気で生きた心地がしなかったし、もう少し満足いくものを提供したかったが、お客さんからしたら人生で一回しか観ない作品である。いろいろなアクシデントも含めてのライブパフォーマンス、そこはできる限りのものを精一杯のいのちを込めて提供したと思う。
 終わりよければ全て良しという具合に、終わった後は滞在を楽んだ。最終日は、市内観光がしたいという皆の要望で、ガイドさんが演劇祭参加者を半日観光に連れて行ってくれた。キール市は第1次世界大戦時は重要な港町で、キール運河で知られる、ヨーロッパの重要輸送ルートだった。そのキール運河に連れて行ってもらう。ちょうど日の入り時刻で、西日が差すなか、エルベ河口沿いを皆で歩き、文化、歴史、芸術、恋愛、人生の話をして盛り上がった。灯台の岬にたどり着き、河口を眺めることのできるカフェでココアを飲んだ。ドイツチョコレートもなかなか美味しい。
 ともに時間を過ごしたのは地元ドイツ人(主にキール市、ベルリン市から)、イタリア人、南アフリカ人、アメリカ人、イギリス人、アルメニア人、ポーランド人、スペイン人、イスラエル人、スロバキア人、フィンランド人とまさしく国際演劇祭。私のしていることは国際交流だと最近痛感する。各国の作品を観劇し、自分の作品(アメリカ/日本合作)を観劇され、人生について芸術について個人のレベルで語り合い、繋がり、互いに理解していくのはとても意義を感じる。この国際演劇祭の主催者であるヨランタさんはポーランド移民でドイツ人と結婚した。1980年代にポーランドでロシア共産主義が強まった時、彼の地からかなりの人が政治難民としてドイツに移住したらしい。ポーランド語、ドイツ語、ロシア語を話すが英語は話せないから、お互いの会話は身振り手振りの片言。それでも演じ終わった後、彼女は泣きながらキスの嵐と抱擁を私にしてくれた。
 最後のランチの前に一人でぶらりと街を歩いた。通ったことのない路地を通り、入ったことのない古着屋に入った。会食予定の時間よりも早くついたので、街の中心にある湖のほとりのベンチで一人の時間を過ごした。湖面が光を反射してキラキラとしている。冷たい風が心地よくて目を閉じる。アヒルの声が360度に聞こえる。人が歩いてベンチの前を通り過ぎるとその振動が体に伝わる。ふっと目を開ける。美しい風景が目の前に広がる。平和を感じた。もう少し長く居たかったが、寒さに身震いをしたので歩き出した。冬の到来を感じた。(YOKKO/動作芸術・舞踏家)