空手の強さ世界に示す

59年前の極真空手VS タイ式ボクシング
フルコンタクトKARATE誌2月号で特集

 力よりも技、技よりも心を大切にする「人間空手」をモットーに米国で創立44年の世界誠道空手を広げ、米国40支部、日本国内30支部を含め世界120支部を持つ道場の創設者、中村忠氏が、日本の空手雑誌「フルコンタクトKARATE」の2月号の表紙を飾った。極真空手の大山道場の代表として1964年にタイ王国へ遠征。ルンピニー・スタジアムでムエタイ選手とムエタイルールで対戦し、2ラウンドKO勝利した時のエピソードが紹介された。当時、3人の空手家がタイ式ボクシング(ムエタイ)との他流試合を行うため、同年1月15日羽田発の日航機で旅立った。異種格闘技に挑んだのは、極真会(大山倍達総裁)の師範代・黒崎健時(当時四段)、中村忠(同二段)、藤平昭雄(同初段)。しかし、バンコクのナショナル・スタジアムでの試合は、延期に次ぐ延期で精神を消耗し、対戦相手も現地で変わるというハプニングの連続だった。いかに3人が逆境を乗り越え、空手を勝利に導いたのか。生きる伝説とも言われる「世界誠道空手道連盟誠道塾」の創設者、中村会長を大特集している。

 中村氏は、1942年2月22日生まれ。段位は十段。樺太真岡郡真岡町(現在のロシア極東連邦管区サハリン州ホルムスク)出身。駒場東邦高校一期生。1965年に日本大学理工学部建築学科卒業後、初代首席師範に任命される。門下生の増加や定着を良くするために、夜だけであった稽古を朝・昼・夜の三クラスに増やし、夏冬の合宿も指揮。これらは極真会館の公式行事となった。10月15日には百人組手を完遂した。

 66年からニューヨーク市ブルックリンで指導を始める。門下生にはウィリアム・オリバー、チャールズ・マーチンらがいる。中村含め、彼らは劇画「空手バカ一代」の重要人物としても登場している。中村はアメリカ各地の他にも、南米・ヨーロッパ・ニュージーランドへも行き、現地門下生の指導や演武を行った。演武の真剣白刃取りや氷柱割りは、極真会館主催のオープントーナメント全日本空手道選手権大会およびオープントーナメント全世界空手道選手権大会でも披露した。これら選手権大会で主審を務め、決勝戦も裁いている。71年に北米本部を設置し、初代北米委員長に任命される。76年に極真会館を離れ(当時の段位は六段)、世界誠道空手道連盟誠道塾を設立。大山は中村を「将来の後継者に」と考えていたようで、中村が極真会館を去った時には日本と世界の極真関係者への激震は多大なものであったという。

 中村が88年に出版した自著『人間空手』(主婦の友社)で、中村は「今思うと大山館長の生徒を育てる愛情と情熱、親しみやすく素朴な面、頭が良くて努力家、夢をたくさん語る事、など僕が影響を受けたり、見習わなくてはならない事が随分あります」と回顧している。

 現在は本部マンハッタンチェルシー校の道場と、ウエストチェスターの浄心本山道場を持ち、二代目の彰氏と共に人間空手の普及に今も努めている。 (三浦)